池愛里は幼少の頃からスポーツが大好きだった。球技ではバスケットボールに夢中になり、ゆくゆくは陸上をやってみたいという思いもあった。だが、ひとつだけ嫌いなものがあった。それは水泳だった。
「スイミングスクールに入っていましたが、水が怖くて最初の体験会で『絶対に辞める』と言って帰ってきてしまったんです。それからも週に1回……いや、ほとんど行っていなかったですね(笑)」
 そんな彼女が競泳選手となった背景とは――。
 小学校3年の時だった。突然、病魔が池を襲った。左ヒザに大きな塊ができ、診断の結果は悪性の腫瘍だった。抗がん剤治療の末に、腫瘍を切除する手術をし、命の危険はなくなったものの、代わりに左足の足首から下に麻ひが残った。手術後、外出さえも禁じられた池にリハビリとして運動の許可がおりたのは半年後のことだった。医師が許可したのは、奇しくも池が嫌がっていた水泳だった。

 池は、以前通っていたスイミングスクールに再び通うようになった。抗がん剤治療の期間も含めると、約1年間、体を動かしていなかった彼女にとって、久しぶりの運動はやはり楽しく、いつの間にか水泳が好きになっていた。

もともと運動が得意の池である。練習すればするほど、みるみると上達し、タイムを更新していった。週に1回だったのが、2回、3回と増え、中学にあがると、選手コースに入り、毎日スイミングスクールに通った。池にとって、水泳は「リハビリ」から楽しさを味わう「趣味」へ、そして速さを追求する「競技」へと変わっていったのである。

 人生を変えた「障がい者手帳」の取得

 そんな池の競技人生を変える出来事があった。中学2年の時、障がい者を対象とした大会の存在を知ったのだ。その頃に申請した「障がい者手帳」に記載されているのを見つけたのがきっかけだった。池はすぐに興味を持った。
「正直、健常者の人たちと競うことに限界を感じたりもしていました。だから、中学で水泳は辞めるつもりでいたんです。そんな時に障がい者の大会があること知りました。今までハンデになっていたものが同じ条件で競えるとわかって、出てみたいなと思ったんです」

 初めて出場した地元の大会で優勝した池は、その年の秋、岐阜県で行なわれた全国障がい者スポーツ大会では50メートル自由形、50メートル背泳ぎを、ともに大会新記録で優勝した。そして現在、池が師事する峰村史世コーチが、池の存在を知るきっかけとなったのが、この大会だった。
「私自身は大会に行くことができなかったので実際に泳ぎを見たわけではありませんでしたが、大会期間中に現場にいた知人から『こんな選手が出てきたよ』という連絡をもらったんです」

 翌年、池は国内最高峰の大会、ジャパンパラに出場した。ここでも池は50メートル自由形、100メートル自由形、100メートル背泳ぎをいずれもアジア新記録で優勝し、その実力を知らしめた。そして、この大会後には日本代表の強化指定選手となり、代表合宿にも参加するようになった。

 この頃から、池の思いはパラリンピックへと向かっていった。そして、それを加速させたのが、同年9月、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催決定だった。その日、母親と一緒にテレビ中継を観ていた池は、決まった瞬間、「絶対に出たい!」という思いが沸き起こったという。20年、池は21歳と、競泳選手としては最も脂が乗っているであろう時に、自国でパラリンピックが開催されることになったのだ。運命の糸に手繰り寄せられるかのように、池はパラリンピックへの気持ちを強くしていった。

 家族の支えがエネルギーに

 東京パラリンピック開催決定で、池のパラリンピックへの気持ちはさらに強固なものになった。まずは16年のリオデジャネイロパラリンピックの出場に向けて、池は練習を開始した。だが、ひとつだけ気がかりなことがあった。実は、中学2年の時、「障がい者手帳を申請したい」と言う池に、父親は「そんなことをしなくてもいい」と反対したのだという。娘が障がい者として扱われることに心を痛めていたのである。
「その時、障がい者手帳はお母さんと一緒に申請に行きました。お父さんには、許可を得ないままになっていたんです」

 池には父親に認めてもらいたいという思いがあった。その背景には、障がい者への考え方が変わった自分を感じていたことがあった。
「正直、自分が障がいを負うまでは、街で障がい者を見ても『自分とは関係ない』と思っていたんです。その自分が障がいを負って、やはり始めは受け入れたくありませんでした。だから、足のことを隠したりしていたんです。でも、そういう自分がどこかで嫌だなとも思っていました。それが障がい者の大会に出てみて、自分よりも重い障がいを負っている選手でも、自分の目標に向かってスポーツをやっていることを知りました。その姿を見て、自分の障がい者に対しての考え方が変わったんです」
 さらに代表合宿では、池の想像をはるかに超えた厳しいトレーニングを課し、皆がパラリンピックを目指して必死に練習に励んでいた。そこに、健常者も障がい者もないことを池は知ったのである。それを、父親にもわかってほしかった。

 その年の11月、池はアジアユースパラリンピック競技大会に出場した。メダルを獲得することはできなかったが、帰国後、池には嬉しいことがあった。父親からこう言われたのだ。
「これからも頑張れよ」
 それは障がい者の大会に出場し、パラリンピックを目指し始めて以降、父親から送られた初めてのエールだった。池は自分がようやく受け入れてもらえた気がした。

 昨年、池は地元の茨城を離れ、東京の高校に進学した。パラリンピックを目指すための練習環境を整えるために選んだ道だった。実は、池の家族もまた東京へと引っ越しをした。両親にとっては、大きな決断だったことは言うまでもない。それだけ世界を目指す池を側で支えたいという思いが強かったということであろう。その家族の支えを力に、池は今、来年に迫ったリオデジャネイロパラリンピックの出場を目指し、トレーニングに励む毎日を送っている。

 東京でセンターポールに日の丸を

 国内では無敵の状態である池だが、果たして世界の情勢はどうなのか。池を指導する峰村コーチはこう語る。
「池は女子で一番障がいの軽いS10というクラスなのですが、12年のロンドンパラリンピックまではそれほどレベルは高くありませんでした。ところがロンドン後、池も含めて、10代の若い選手たちが台頭してきたんです。そのことによって、ロンドンの時とは比較にならないほどレベルが上がっています。もちろん、競争が激しくなった分、勝つのは大変です。でも、だからこそのやりがいも出てきたと思っています」

 そして今後の池について、峰村コーチはこんな青写真を描いている。
「まず来年のリオでは決勝を上位で戦える選手になってほしいですね。池にとっては、いい経験になると思います。そして20年の東京では、表彰台の一番高いところで、一番輝かしいメダルをかける選手に育てたいと思っています」
 もちろん、池も同じ気持ちであろう。

 その池のトレードマークは笑顔だ。辛さや悔しさを、彼女はほとんど表情に出すことはない。ふだんの練習の時も、代表合宿の時も、そしてレース後のインタビューでも、常に笑顔を絶やさない。その理由を、池はこう語る。
「いつでも笑顔でいるように心がけています。病気をした時、辛い時もありましたが、それをできるだけ顔に出さないようにしていたら、いい方向へと向かっていきました。だから苦しいことがあっても、笑顔で耐えれば、きっといい方向にいくと信じているんです」
 その笑顔が最高に輝く瞬間、それはパラリンピックの舞台で訪れるに違いない――。

(おわり)

池愛里(いけ・あいり)
1998年9月12日、茨城県生まれ。東京成徳大高1年。MINEMURA ParaSwim Squad/エイベックス。小学3年の時に左ヒザ付近に悪性腫瘍を患い、筋肉の一部を切除した。そのため左足の足首から下に麻ひが残る。リハビリで始めた水泳に、中学1年から本格的に取り組み、2年時に出場した全国障害者スポーツ大会で2冠を達成。翌年のジャパンパラでは50メートル自由形、100メートル自由形、100メートル背泳ぎでアジア新記録をマークして優勝。この大会を機に、日本代表強化指定選手となり、11月にはアジアユースパラにも出場した。昨年のジャパンパラでは50メートル自由形で自身がもつアジア記録を塗り替えた。同年のアジアパラ競技大会では5種目に出場し、4つのメダル(金1、銀1、銅2)を獲得。178センチの長身と長い手足をいかしたダイナミックな泳ぎで、2016年リオデジャネイロパラリンピック、2020年東京パラリンピックでの活躍が期待される注目のスイマー。

(文・写真/斎藤寿子)
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