女子100メートルハードルの日本記録は、2000年に金沢イボンヌがマークした13秒00。それから15年止まったままの時計。“13秒の壁”を超えることは、日本女子陸上界の悲願である。住友電工に所属する伊藤愛里も、そこに挑戦するハードラーの1人だ。しかし、彼女自身もまた“壁”に直面している。パーソナルベスト(13秒27)は4年前から塗り返られていない。
「自己ベストが見えないことには、その先はクリアできない。そこをどうすればいいのか追求し、解明したいんです」
 社会人4年目の今シーズン、伊藤は変化を求めている。


 弱点克服のためのパワーアップ

 彼女の長所は、滑らかなハードリングがもたらすレース後半の伸びである。ハードルの跳躍で減速するライバルたちを抜き去るのが理想の展開だが、逆を言えば、伊藤の課題は前半にあった。スタートダッシュを含めたスプリント能力が、彼女はライバルたちに比べると高くはない。
「それは自分でも感じていることですし、体感したという方が近いかもしれないです。日本の選手や海外の選手、他と私の動きを比較した時に勝っている部分、劣っている部分がある。その劣っている部分の原因の多くにパワー不足があったんです。じゃあ、それをどうにかするしかない」

 課題をクリアするため、伊藤は昨年のはじめから筋力トレーニングに取り組んでいる。今シーズンは前年より、体重は3キロアップした。

 今年2月からはオーストラリアで合宿を行い、サリー・ピアソン(オーストラリア)と合同練習する機会にも恵まれた。ピアソンは11年世界選手権大邱大会、12年のロンドン五輪と2年連続で世界一に輝いているトップ中のトップのハードラー。12秒28のパーソナルベストは世界歴代5位の記録である。

 トレーニングを共にし、3月のオーストラリア選手権では隣のレーンで走った。そこで感じたのも、やはり自らのパワー不足だった。ピアソンからも直接、アドバイスを受けたという。
「『日本人は足のトレーニングが多いけど、上半身に対するものは少ないね』と言われました。『劣っているのは腕とお腹だよ』と、足のことは一切触れられなかったんですよ。日本人はバランスが悪いのかもしれない。私だけを指していたのかもしれませんが、とにかく上半身の筋肉をつけようということで、腹圧を高めることを意識して練習しています」

 伊藤は強くなるための道筋は見えてきた。「いい環境があり、会社からの全面的支援もあり、いい競技会で走らせてもらえている。その3つがあるので、いけると確信しています」。今年の5月上旬、彼女は手応えを口にしていた。

 しかし、結果はまだ出ていない。5月に行われた静岡国際陸上競技大会とセイコーゴールデングランプリ陸上で、伊藤は5位と8位、今月の日本選手権は7位に終わった。タイムも13秒52、13秒59、13秒67と自己ベストには遠く及ばない。彼女の中で、これまでの過程に微塵も迷いがないわけではない。だが、変化を恐れてはいない。
「トレーニングの内容を変えてきているので、これまでとはだいぶ違う。成果はまだ出ていませんが、今、うまくいかないからといって、それを元に戻すのは、これから伸びる可能性を閉ざすことになるかもしれないんです。だから精度を高めるために、どうすればいいかを考えていてやっていきたいなと思います」
 まだ進化の途中なのである。

 ハードル界の“常識”を覆す挑戦

 現在、女子100メートルハードルの日本記録は15年更新できていないが、世界記録(12秒21)も27年動いていない。これはスプリントハードル(男子110メートル、女子100メートル)の特性に依るものだと伊藤は語る。
「ハードル間のインターバルが決まっているものなので、ストライドを伸ばすのにも限界があるんです。だからスプリントハードルの世界記録はなかなか変わらない。上位の記録も少しずつしか動いていないのは、ピッチを上げるしか道が残されていないからなんです。つまりは限界のピッチを求める種目ですね」

 同じハードル種目の400メートルハードルでは、インターバルは35メートル。その間の歩数をコントロールできる一方で、スプリントハードルはハードル間の距離(男子は9.14メートル、女子は8.5メートル)が短い。ゆえに多くの選手が3歩で跳んでいるという。

 伊藤はその“限界”に挑もうとしている。
「将来的な話で、私が考えているのは、スプリントハードルでも歩数を変えていきたい。3歩でいっているところを2歩にするなんて、ほぼほぼ不可能に近いと思うんです。ただ最後の1台だけならば、2歩でいくこともできるんじゃないかと。そういうテクニックやそれを可能にするストライドを持っていれば、記録が一気に伸びると感じています」
 ハードル界の“常識”を覆すために、伊藤は自らの身体を持って探究するのだ。

 満点を求め、笑顔で解答

 そんな伊藤の憧れの存在は、日本歴代6位の記録(13秒08)を持つ石野真美である。昨シーズン限りで引退するまで日本選手権の100メートルハードルを2度制し、世界選手権にも出場した経験を持つ日本を代表するトップハードラーだ。
「身長は私よりもだいぶあって、スラっとされている。すごく動きがしなやかでキレイなんですよ。私の目指しているハードルも、そこに近いところがある。パワフルなものは私にはまだ厳しい。じゃあ、もっとキレイに跳んで、緻密で繊細な動きをしていけば、記録も伸びるんじゃないかと思っています。その理想に合致したのが、石野さんの走りだったんです」

 美しいハードリングを追いかけ、ここまで駆け抜けてきた。伊藤の目標は、憧れの石野ですら叶わなかったオリンピックの舞台に立つことである。
「オリンピックに出て、日の丸を背負いたい。会社がとてもワールドワイドなので、日本だけで競技をするのではなく、“世界へ出て行かないと”という思いがありますね」

 どちらかと言えば、現実主義者の伊藤。小さい頃から大言壮語をするタイプではない。
「当時はぼんやりとしか見ていなかったんです。“自分じゃ、できるわけない”と、変に現実を見ていて、大きな夢を持つようなタイプじゃなかったんです。夢は『ケーキ屋さんになって、毎日、ケーキを食べる事』と言っているような小学校生活を送っていましたから、そんなことは全く考えていなかったです」
 かつては夢にも思わなかった大舞台への出場。でも、今は目標だとはっきり口にする。

 中学1年から始めた競技人生。これまでで100点の出来はなかったという。その理由を伊藤は、こう説明する。
「すべてにおいて、不十分だからこそ、今があると思うんですね。なので、会心のレースはない。だって満足したら、そこで終わりじゃないですか。まだ足りないと思うからやっているんです」

 満点の解答を求め、今日も伊藤は試行錯誤を繰り返す。レースで答え合わせを楽しみながら、彼女は“壁”や“限界”というハードルをひとつひとつ跳び越えていく――。

(おわり)

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伊藤愛里(いとう・あいり)プロフィール>
 1989年7月5日、愛媛県松山市生まれ。中学で陸上競技をはじめ、1年時の秋に100メートルハードルを専門種目とする。済美高2年時の全国高校総合体育大会では同種目で4位に入賞した。関西大学進学後は、2年時から関西学生対校選手権で3連覇を達成。4年時の全日本学生対校選手権では初優勝し、アジア選手権やユニバーシアードと国際大会にも出場した。12年、住友電工に入社。1年目から全日本実業団対抗選手権を3連覇すると、昨年秋の長崎国民体育大会では成年女子の部で初優勝した。身長165センチ。自己ベストは13秒27。

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(文・写真/杉浦泰介)




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