ゲームは楽しい。だから、お金を出してでもやりたいと思う人がいる。ゲームなんかくだらない。お金を出すなんて考えられない、という人もいる。
 スポーツは、本来、ゲームである。
 欧米では、新しいスタジアムを建設する際、財源を増税によって賄おうとすることが多々ある。反対する人はもちろんいる。ただ、そうした層よりも、「ゲームをより楽しむためならば」と増税を呑む層が多数派である場合も多く、結果として、次々と素晴らしい新スタジアムが誕生し続けている。

 前日付のスポニチで二宮清純氏が指摘していたが、いま、新国立競技場のコスト問題が深刻な状況を迎えている。どうやら、招致にあたって広げた風呂敷は、上向いてきたらしい日本経済にとっても大きすぎたらしく、このままでは計画の大幅な変更は必至だとか。下村文部科学相から整備費の負担を求められた舛添知事は「都民に500億円の拠出をお願いするだけの論理が必要だ」と述べたという。

 就任した時にはすでに五輪開催が決定していた舛添知事からすれば、前任者が広げた大風呂敷を自分が、都民に無断で畳むわけにはいかないと考えるのは当然である。とはいえ、このままでは開催返上まで起こりうる以上、都なのか、それとも国なのかが、「都民にお願いするだけの論理」を用意してくる可能性は高い。

 その際、都民はいかなる反応を示すのか。

 欧米と同じく、スポーツをゲームだと考える人が多数派であれば「論理」は認められよう。だが、スポーツが娯楽ではなく、義務教育における義務、つまり「拒否する自由のない状況」で運用されてきた日本の場合、舞台を用意するのは自分たちではなく“お上”の仕事であると考える傾向が強い。なぜ自分たちがお金を出さなければいけないのか、という拒否反応は相当に強いのではないか、という気がする。

 ただ、五輪とパラリンピックが連続して開催され、かつ後者の存在意義と規模が大きくなる一方のいま、大会を開催する意味は、日本のような国にとっては特に大きい。

 つまり、世界中から集まるパラリンピアンに快適な環境を提供しようとすることは、高齢者にとって優しい環境をつくることと、きわめて近しい関係にあるからである。そして、高齢者にとって優しい環境は、赤ちゃんを抱えたお母さんにとっても優しい環境となる。

 五輪はゲームである、とわたしは思う。そして、ゲームのために整えられる新しい環境の恩恵に預かれるのは、主に開催地東京の都民である。無責任な大風呂敷を広げた人たちに対する怒りは覚えつつ、それでも、「負担か返上か」を問われれば、わたしは負担を選びたいと思う。ゲームを楽しむために、時に、課金する場合もある人間としては。

<この原稿は15年5月21日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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