二宮: プロデビューから3連続KO勝利を収めましたが、フライ級の東日本新人王決定戦でピューマ渡久地さんにKO負けを喫してしまいます。最初につまずいたのはショックだったのでは?
川島: そうですね。田舎から出てきて、都会の生活に慣れなくて、心身ともにコンディションは良くなかったですね。それから減量もきつかった。全部、言い訳になっちゃいますけど、すべてがダメな状態で試合に臨んでしまいました。言い訳をつくってリングに上がると絶対に負けちゃいますよ。
二宮: 減量はどのくらい必要だったんですか。
川島: 多い時で10キロくらいですね。成長期だったので、ちょっと油断すると体重が増えてしまう。食事も今まで作ってもらっていたのが、自炊や外食をしなくてはいけなくなったので大変でした。

 相手の距離で防御から攻撃へ

二宮: その後、プロ6戦目でも川島光夫さんにKO負けと挫折を味わいました。
川島: ショックでしたね。相手の右フックを食らって一瞬、目の前の画面が消えたんです。画面がブワーッと戻ってきて、あとから声が聞こえてきた。その時には倒されていましたね。後でビデオを観たら、相手も狙って打ったパンチじゃない。下を向いて繰り出した右フックと、自分の前に出ていったタイミングがピッタリ合ってしまった……。

二宮: アマチュアではインターハイ優勝の実績を誇りながら、プロでは早々に2度の敗戦。ボクシングを辞めてしまおうと思ったこともあったのでは?
川島: 正直、自分では“終わった”と感じましたね(苦笑)。気分的にもかなり落ち込んでいました。ただ、ボクシングを辞めても僕には何もない。米倉(健志)会長にも強く叱られて、どう這い上がっていくかを考えて練習するようになりました。

二宮: KO負けが続いたことで、ディフェンスの技術をより磨いた部分もあったのでしょうか。
川島: もともと僕はシュガー・レイ・レナードのような華のあるボクサーが好きだったんです。でも、プロに入って気づいたのは、僕は相手の距離の中でパンチを避けているということ。間合いをとるのがうまいわけでも、リーチも長くない。距離をとってストレートにつなげるタイプではないんです。だから、相手の距離の中で一生懸命動いてパンチを避け、ディフェンスから攻撃に素早く切り替えることを意識していました。そこを追求するうちに上体でうまくさばけるスタイルになっていったんでしょうね。

二宮: 世界を目指す上でもインファイトを強化しないといけないとの考えもあったと?
川島: もちろん、そうです。相手の領域で動けば、避け損なうともらってしまう。本当にディフェンスが上手な選手は、間合いをキープして相手に打たせないように打つのでしょうが、僕は相手の距離に入って、スウェーとかを使って必死に避けるしかなかった。それが僕の体に合ったボクシングだったんです。

二宮: ジムの先輩の大橋秀行さん(元WBC、WBA世界ミニマム級王者)もインファイターで強打が持ち味でした。影響を受けた部分もありましたか。
川島: 出世頭の先輩ですから、影響されたところもありましたね。米倉会長は「大橋に足が使えたら、もっとすごいボクサーになった」と言っていました。とはいえ、足が使えたら、あの強打はなかったでしょう。途中からは僕とはタイプが違うと気づきましたが、それまではマネした時期もありました。

二宮: 同じサウスポーでも、たとえば今のWBC世界バンタム級王者の山中慎介選手とはタイプが随分、違いますね。
川島: はい。彼の場合は、スタンスを広くとり、やや突っ立った感じで、ドーンと左を打ちこむ。(WBA世界スーパーフェザー級王者の)内山(高志)も近いタイプですね。距離をとりながら強いパンチで抑え込むスタイルです。

 焦りを感じた鬼塚の活躍

二宮: こうして力をつけていき、日本タイトルを獲ったのが、プロ12戦目。デビューから4年が経っていました。
川島: 4勝2敗からのスタートですから、とにかく勝っていくしかチャンスはない。当時は勝ちを増やしていくことしか頭にありませんでした。大橋さんからもよく言われましたよ。「オマエはエリートのようだけど、実は雑草だな」と。

二宮: 確かに、たたき上げと言っていいキャリアですね。今、プロ12戦なら世界挑戦をしても不思議ではありません。
川島: それに当時は25歳を過ぎるとベテランと言われる時代でした。日本タイトルを獲った段階で22歳でしたから、年齢的にも焦りがありましたね。

二宮: その時、既に同い年の鬼塚勝也さんはWBA世界スーパーフライ級王者になっていました。他にも辰吉丈一郎が出てきていましたから、余計に焦りは強かったでしょう。
川島: 遅れたという実感は確実にありましたね。特に鬼塚はジムの先輩の中島俊一さんを破って日本王者になり、世界への階段を上っていった。中島さんとは僕もスパーリングをしましたが、やられてしまうほど強かった。その先輩を2度も破りましたからね。とはいえ、焦ってもしょうがないので、追いついていくしかなかった。

二宮: 日本王座を獲ってからも防衛戦は杉辰也さん、松尾哲也さん、松村謙一さんとタフなボクサーとの対戦が続きました。
川島: しぶとい選手が多くてイヤでしたよ。4度世界挑戦した実績もある松村さんのような人もいて、この時期の日本人ボクサーはそれぞれ味がありましたね。

(第4回につづく)
>>第1回はこちら
>>第2回はこちら

川島郭志(かわしま・ひろし)プロフィール>
 1970年3月27日、徳島県海部郡海部町(現・海陽町)出身。幼少時から父よりボクシングの英才教育を受け、海南高(現・海部高)時代にはインターハイのフライ級で優勝。高校卒業後、ヨネクラジムに入門し、88年8月にプロデビュー。鬼塚勝也、ピューマ渡久地とともに平成三羽ガラスとして注目を集める。だが、プロ4戦目の東日本新人王決勝戦で渡久地に敗れるなど、挫折も経験。デビューから4年経った92年7月に日本スーパーフライ級王座を獲得する。同王座を3度防衛したのち、94年5月に世界初挑戦。ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)を判定で下し、WBC世界スーパーフライ級王座に就く。同王座を6度防衛し、約2年9カ月にわたってベルトを保持し続けた。97年2月に敗れて失冠し、現役引退。00年に川島ボクシングジムを開設し、後進の指導にあたるとともに、テレビ中継の解説者としても活躍している。



(構成・写真:石田洋之)


◎バックナンバーはこちらから