第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で連覇を達成した日本代表チームが25日夜、帰国した。そのまま米国に残ったイチローらメジャーリーガーと、シーズンに向けて先に福岡に戻った川崎宗則を除く全員が会見に臨み、原辰徳監督は「日本、そして日本野球人を代表して29名それぞれが覚悟と潔さを持って、日本力をみせつけてくれた」と選手たちを讃えた。
(写真:「監督として世界一になれたことは大変な誇り」と胸を張る原監督)
「2月15日に集合し、16日からスタートして昨日まで、チームは1日1日進化して強くなった」
 原監督は、約1カ月間の戦いをこう締めくくった。順調な滑り出しだったキャンプ。宿敵・韓国にコールド勝ちと零封負けの両方を経験した1次ラウンド。強豪キューバを2度も無失点で抑えて勝利した2次ラウンド。主砲・村田修一の離脱もあった。そして野球大国・米国を破った準決勝、5度目の対決で決着をつけた韓国との決勝――。大きな波も小さな波も乗り越えて、船は目指す港へ到着した。

 連覇の要因を原監督は「日本力」と表現した。「日本力とは気力、粘り、その2点。特に決勝の韓国戦では日本力をみせて勝てた」。チームは2度追いつかれたが、決して逆転されることはなく、最後は粘る韓国を振り切った。「今回の戦いは総力戦だった。投手も野手も持ち味を出して頑張ってくれた」。ネット裏で戦いをみつめた前回大会の指揮官、王貞治コミッショナー特別顧問は、そう語り、「野球界に生きてきて良かった」と喜んだ。

 激戦を終えた選手たちは長旅の疲れもみせず、一様にすっきりした表情だった。決勝でも好投し、連覇の原動力となった先発・岩隈久志は「投げている時は集中して、ひとりひとり楽しんで投げていた。終わってみるとホッとして疲れがドッと出ました」と笑顔をみせた。北京五輪では好成績をあげながら代表から漏れただけに、「日本代表のユニホームを着られて光栄に思った」。抜群の制球力で球数制限のある中、4試合で20イニングを投げ抜いた。「自分のピッチングができたことをうれしく思う」。結果を残せなかったアテネ五輪とは違い、2度目の国際舞台は右腕にとって大きな自信につながる大会だった。
(写真:空港での熱烈な出迎えに「ビックリした」と語る岩隈)

 また不動の3番打者として打率.324をマークした青木宣親は、これまでの経験が生きたと語る。「短期決戦の国際舞台では試合の流れが大事だなと感じていた」。その象徴となったプレーが2次ラウンドの韓国戦(20日)の8回、同点に追いつかれた場面でのセーフティバントだ。「試合の流れを変えられるプレーを心がけていた」。日本の勝ち越し点につながる出塁はイチローも絶賛した。さらに打点はチーム最多タイの7。勝負強さも光った。「年上の選手の負担になるようなことはやってはいけないと思っていた。僕が引っ張るくらいのつもりで試合に臨みました」。日本の新しいリーダーとしての自覚も芽生えたWBCだった。

 会見には右太もも肉離れで無念の帰国となった村田も同席。歓喜の瞬間はグラウンドにいられなかったが、表彰式で同じ横浜の内川聖一からトロフィーに自身のユニホームをかぶせてもらった。「最高の気分でした。いい後輩に恵まれた」と笑顔だった。原監督からは金メダルを授与され、「早く復帰して、同じ野球で(迷惑をかけた分を)返していきたい」とシーズンでの活躍を誓った。
(写真:がっちり原監督と握手する村田)

「2009WBCで2連覇という偉業を成し遂げた。サムライたちは未来永劫、燦然と歴史に名を刻んだメンバーとして胸を張って歩んでもらいたい」
 個性あるサムライたちを率いた侍大将は、選手たちの今後に期待を寄せる。今回のサムライジャパンは、この日で解散。それぞれの選手はチームに戻り、4月のシーズン開幕に備える。原監督も「この会見を最後にサムライジャパンを卒業させていただく。ジャイアンツの監督として3連覇を目指して頑張っていきたい」と新たな目標へ頭を切り替えた。第3回WBCは4年後、2013年の予定だ。“日本力”を三度、世界に示すその日に向け、サムライたちは各々の場所で日本の野球を牽引する。そしてサムライたちが再集結した時、もう一度、夢を見るだろう。

(石田洋之)