シアトル・マリナーズのイチローが7日、敵地でのオークランド・アスレチックス戦で第1打席にライト線への2塁打を放ち、メジャーリーグ通算2000安打を達成した。メジャー史上259人目の記録で日本人選手は初の偉業となる。メジャー9年目での到達は史上初めて。出場1402試合目での達成は1900年以降では、アル・シモンズ(アスレチックスなど)の1390試合に次ぐ2番目のスピード記録だった。この日のイチローは4打数1安打で、前人未到の9年連続シーズン200安打にもあと5本と迫った。
▼二宮清純特別コラム『「振り子」が世界を席巻した日』を掲載
 記念の一打は試合開始直後に飛びだした。この日も「1番・ライト」で先発出場したイチローは初回、いつもの動作を繰り返して打席に入る。ワンボールからの2球目、インコースのストレートを振り抜くと痛烈な打球がライト線へ。白球がフェアグラウンドで弾んだのを確認すると、俊足を飛ばして悠々と2塁に到達した。

 9年前、メジャー初安打もアスレチックス戦だった。2001年4月3日、「1番・ライト」でスタメン出場したイチローは、第4打席でセンター前ヒットを放った。それから9年で首位打者を2回、最多安打を5回。2004年には262安打でシーズン最多記録を84年ぶりに更新し、MLBを代表する安打製造機として歴史に名を刻んだ。ルーキーイヤーからの年間安打数は242、208、212、262、206、224、238、213。そして今年は、この1本で195安打目となり、9年連続200安打もカウントダウンに入っている。

 左ふくらはぎを痛め、8月下旬に8試合欠場するアクシデントも記録達成に全く支障はなかった。復帰戦から休むことなくヒットを重ね、残り4本で迎えた前日は3安打で一気に王手をかけた。そして、まだ通過点と言わんばかりに、足踏みすることなく大台に乗せた。

 場内では記録達成を告げられた敵地のファンがスタンディングオベーションでイチローを祝福。ヘルメットをとって、その声援に応えた。試合はイチローの2塁打をきっかけにマリナーズが先制したものの、終盤に満塁弾を浴びて逆転負け。イチローも以降はショートフライ、サードゴロ、空振り三振に倒れた。

 連敗したチームはア・リーグ西地区首位のロサンゼルス・エンゼルスとの差が10.5に開き、ワイルドカード争いでもボストン・レッドソックスに8ゲーム差をつけられた。プレーオフ進出は極めて厳しい状況だ。今年も個人記録のみに注目が集まりそうなシーズン終盤だが、次なる金字塔へ向け、背番号51はいつもと変わらず快音を発し続ける。


「振り子」が世界を席巻した日 〜二宮清純特別コラム〜

 果たしてイチローはメジャーリーグで活躍できるのか――。
 イチローのメジャー入団が決定した時、私は幾度となくそう聞かれ、そして答えてきた。「YES」と。その答えが間違っていなかったことが海の向こうで証明された。それも、考えていたよりも数段上のレベルで、だ。

 まずアウトフィルダー(外野手)としての能力を見た場合、肩、足、守備のセンス、どれをとってもメジャーの一流どころに比べて引けをとるものではない。彼がメジャーで見せるファインセーブや矢のような送球はメジャーリーグの広いスタジアムで、さらに輝きを増した。

 続いてバッターとしての才能だが、これは守備よりもさらに非凡だ。1年目からリーグの首位打者を獲得し、連続試合安打のチーム記録を更新したことでも明らかなように、バットコントロールの巧さはメジャーの中でもトップクラス。マリナーズには93年、打率3割6分3厘で首位打者に輝いたジョン・オルルッドという好打者がいたが、長打力はともかく野手の間を抜いたり、塁間に速い打球を走らせる技術に関しては甲乙付け難い。

 かつて野茂英雄に「イチローをメジャーリーガーにたとえたら、誰でしょう?」と聞くと「強いて言えばケニー・ロフトンですかね」という答えが返ってきた。
 ロフトン(インディアンズなど)といえば俊足、強肩、好打の90年代のメジャーリーグを代表するリードオフマン。ロフトンは94年の3割4分9厘を最高に過去6度、3割台をマークしているが、私が考える彼のキャリアハイは96年のシーズン。154試合に出場し、打率3割1分7厘、14本塁打、67打点、75盗塁。安打数はイチローが94年にマークしたのと同数の210だ。

 メジャーリーグでは日本のように、トップバッターがちょっとパワーが増したからといって3番を打たせたり、4番に転向させたりすることはない。ロフトンにしてもクリーンアップヒッターの任務を負わされたことはないのではないか。
 その点、日本のバッターは気の毒である。俊足、好打の典型的なリードオフマンが、ちょっと腕が太くなったという理由だけで、無理やり3番に“昇格”させられる。たとえばスイッチヒッターの松井稼頭央(アストロズ)はライオンズ時代、パワーヒッターがいないというチーム事情の“犠牲者”として、4番に座らされることがままあった。
 4番に座らされれば、当然、打法の改善を余儀なくされる。長打を求められるため自ずとスイングが大きくなり、それが原因で自らの持ち味を殺してしまった選手を私は何人も知っている。小は大を兼ねないのである。
 
 翻ってメジャーリーグにおいては、その選手の適性に合わせた打順が用意される。言うまでもなくイチローは1、2番タイプだ。イチローの日本時代の成績を見ていて、ひとつ気になったのは、彼の走力を考えれば盗塁数が少ないのではないか、ということである。最高は盗塁王に輝いた95年の49。98年は11、99年は12にまで落ち込んだ。

 もっともこれには理由がある。先述したように本来のトップではなく3番を任されることが多くなり、日本での最終年は4番に定着した。チーム事情によるものだが、チャンスメーカーからポイントゲッターへの転向は、才能に恵まれたイチローだからこなせることであり、決して本意ではなかったはずだ。

 アメリカのピッチャーは日本のピッチャーに比べてクイックは雑である。牽制も日本ほどしつこくはない。ただし、キャッチャーの肩の強さ、スナップスローの正確さは日本人キャッチャーの比ではない。つまり、走る上ではプラス材料もあればマイナス材料もあった。

 それでも盗塁数は増えると私は見ていた。イチローのモチベーションがそうさせると思ったからだ。
 工藤公康(横浜)は以前、こんなエピソードを披露した。
「アイツの塁に出よう、ヒットにしようという執念はすごいですよ。ファーストベースに飛びこむとき“セーフ!”と大声を発するんですから。その声に驚いて、審判が両手を左右に開くことがよくありましたよ」

 イチローが実質的なプロデビューを果たしたのは94年だが、この年、日本記録の210安打をマークしているのだ。
「センター前ヒットなら、いつでも打つことができる」
 そう彼は語っていた。
 レギュラーの座を不動のものとするため、この頃、イチローはセンター返しを自らのバッティングの基本に定めていた。内野安打も多く、ボテボテのごろはほとんどヒットになっていた。この年、打率は3割8分5厘だった。

 イチローの日本時代には、94年とほぼ同じ成績を残したシーズンが1度だけ存在する。2000年シーズン、すなわち日本での最後のシーズンだ。両シーズンの成績を見比べてみよう。
94年 打率3割8分5厘、13本塁打、54打点、29盗塁
00年 打率3割8分7厘 12本塁打 73打点 21盗塁。
 94年が130試合だったのに対し、00年の出場は105試合。打順は94年が1番で00年が4番。大きな差は打点だけだが、それは打順に起因すると考えていい。

 注目してほしいのは打率と盗塁数だ。4番に座りながら、これだけのハイアベレージを維持し、盗塁も3年ぶりに20をこえた。
 実質的なデビューのシーズンと最後のシーズンの成績が似かよっていたのは、単なる偶然だろうか。私にはこのふたつのシーズンこそが彼の野球の原点のような気がしてならないのだ。すなわち生粋のリードオフマンがイチローの実像だということである。

 メジャーでのデビュー戦、ピッチャーがストライクさえ投げれば、イチローはセンター前の芝に球足の速いゴロを躍らせてみせるだろう。これが私の確信に近い予言だった。そして、それは現実になった。
 イチローのパフォーマンスは、ややもするとパワー一辺倒になりかけていたメジャーリーグの野球に対し、このスポーツの原点に立ち返り、スピードも精度もパワーに劣らない魅力なのだということを本場で再提案した。塁に出る、次の塁を奪う、本塁に還ってくる――リードオフマンに求められる仕事をイチローは完璧にやり遂げている。排気量の大きな車が幅をきかす中、日本産の高性能リッターカーがダイヤモンドを席巻する様は、日本人にとって痛快きわまりない。海を渡った背番号51は本場のベースボールをも確実に変えたのである。

<この原稿は『月刊現代』(講談社)2001年1月号、および『メジャーリーグを10倍楽しむ方法』(KKベストセラーズ)に掲載された内容を抜粋し、再構成したものです>