25日、元巨人の土井正三氏がすい臓がんのため死去した。土井氏は育英高校(兵庫)、立教大学を経て1965年に巨人に入団、名二塁手として鳴らした。打撃では強打者の長嶋茂雄氏や王貞治氏につなぐ2番打者としてチームバッティングに徹し、巨人の9連覇に大きく貢献。現役引退後は巨人のコーチ、オリックスの監督などを務めた。しかし、2007年春にすい臓がんを患い、手術後は自宅で療養していた。その年の夏、療養中の土井氏を当サイト編集長・二宮清純が訪ねた。V9時代からオリックス監督時代のイチローとのかかわりなど、土井氏が語ってくれた貴重なエピソードをここに改めて紹介するとともにご冥福をお祈りしたい。
「生きていてよかった。本当に生きていてよかったと思いました」
 東京都内の自宅。リクライニング式のベッドに腰をかけながら、ひとつひとつの言葉を噛み締めるように土井正三は語り始めた。
 頬は随分こけたが、眼光は異様に鋭い。髪には白いものが増え、腕には無数の点滴の跡が残る。土井正三といえばV9巨人を支えたいぶし銀の名二塁手。現役引退後は長嶋巨人、王巨人で計8年にわたってコーチを務めた。91年から3年間はオリックスの指揮を執り、若き日のイチローを指導した。
 93年オフにオリックスの監督を辞し、再び巨人のコーチを経て活動の場をネット裏に移した土井を、この春、病魔が襲った。診断の結果は「すい臓ガン」。手術は15時間にも及んだ。
 意識を回復したのは手術から2カ月後、その時、思わず口をついて出たのが冒頭の言葉である。病をおしてのインタビューは3時間にも及んだ。
 
 普通、ガンは背中が痛いとか、どこかに症状が現れるものなんですけど、僕はどこも痛くなかった。この2月、沖縄のキャンプから戻ってきて、ちょっと食欲が落ちた。で、帰ってきた翌々日、トイレに行って驚いた。コーヒー色のオシッコが出たんです。
 慌てて近くのクリニックに行き、血液検査をした。「とにかく今日中にわかるやつは全部出してくれ」と頼みました。翌日はゴルフに行く予定だったものですから。
 ちょうど帰りの車に乗っている時に電話がかかってきた。「すぐに来てください」と。診断した医者は「肝臓の数値が高いから大きな病院で再検査したほうがいい」と言いました。
 それで次の日に国際医療福祉大学三田病院に行った。エコーをやってCTをとり、MRIもやった。その日は一晩、入院しました。

 翌日、写真があがってきた。内科の先生の説明は「胆管が詰まっていて胆汁がたまり、逆流して肝臓のほうに行っている。それで黄疸が出る」というものでした。
 その時、ひとりの女医さんがスッと入ってきてMRIの写真を見た。小声で「すい臓です」と言ったんです。
 僕はピンときて「すい臓ガンですか?」とはっきり聞きました。すると「それは何とも言えませんが、すい臓に関しては帝京大学の高田忠敬教授が一番です」と言って、すぐに電話をかけてくれました。
 その次の日、写真を持って帝京大学医学部附属病院に行きました。再検査したら「間違いなくすい臓ガンです」と。高田先生は自信満々に「命は助けてあげます」と言ってくれました。
 運が良かった、と思いました。もし、あの女医さんが偶然、部屋に入ってこなかったら、おそらくすい臓ガンは見つかっていなかったでしょう。

 川上哲治からの手紙

 ガンは予想よりも進んでいました。長男は内科医ですが、高田先生は手術中に長男を呼び、こう聞いたそうです。
「2つの選択肢があります。ひとつはこのまま閉じてしまう。そうすれば6月までは生きられる。ただし、余命4カ月。もし手術をしても(ガン細胞は)大動脈にまで転移しているから、途中で亡くなることもある。どうしますか」と。
 長男は手術の続行を選択しました。その結果、すい臓全部と胃を半分、他に十二指腸、脾臓、胆嚢、胆道、胆管も全部摘出しました。血管を通って転移する恐れがあったからです。
 手術は計15時間かかりました。意識を回復したのが2カ月後。高田先生は翌日から3日間、寝込んだそうです。それほどの大手術でした。
 意識が戻ったのは、ちょうどゴールデンウィーク明けでした。最初に口をついて出てきたのが「生きててよかった」という言葉でした。オレは生きているんだと……。

 おもしろいエピソードがあるんです。夜、寝ようと目をつぶるでしょう。すると必ずオードリー・ヘプバーンが出てくるんです。それも決まって『ローマの休日』の最後の記者会見の場面。グレゴリー・ペックがいて、なぜか、その隣にはジョン・ウェイン、ハンフリー・ボガート、ゲーリー・クーパーもいる。ヘプバーンとペックを除いては皆、お腹が空洞なんです。向こう側が透けて見える。まるであの世から呼びに来ていたようでした。
 それで「寝たらアカン」と必死で目を開けるとたちどころに彼らは消えていく。そして、またヘプバーンとペックだけが現れる。
 で、そのことを見舞いに来てくれた長嶋(茂雄)さんに告げると「オマエ、そんなに好きなのか?」と言って、自宅にあったヘプバーンの写真集をわざわざ東京ドームに届けてくれました。6月8日、巨人軍通算5000勝達成記念のイベントに出ることになっていましたから。

 川上(哲治)さんからは手紙をいただきました。「人間は病気では死なない。寿命がある。キミは巨人に入って、あの体で90パーセント以上の試合に出て、9連覇に貢献した。それだけの根性を持っているのだから、病気なんて打ち破れるだろう」。そんな内容のことが綴られていました。川上さんの手紙にはどれだけ励まされたことか……。
 大病を患い、大手術を受けたにもかかわらず、僕は主治医も呆れるくらい、さっぱりしていました。手術の日もエレベーターの前で「行ってくるぞォ」と家族に手を振ったくらいですから。
 そんな僕でも、この9月で89歳になるオフクロが病院にきてくれ、「代われるものなら代わってやりたい」と言ったときだけは、ボロボロと涙がこぼれ落ちました。僕は一言、「親不孝しました」と言って謝りました。もしかしたら、オフクロより先に逝ってしまうことになるかもしれないわけですから……。

 もう一度グラウンドに立つ

 6月8日、僕は東京ドームに行きました。最初、巨人から電話があった時は病気を説明して断りました。
 ところが家族が「これからリハビリを始めるんだから、その一歩として球場に行け」と言うんです。
 女房のことも考えました。入院中、女房は献身的に看病してくれた。看護師長さんには「あんな献身的な看病は病院開業以来だ」と言われました。そんな女房の看病に応えるためにも東京ドームのグラウンドに立とうと。
 もちろん僕は車イスです。東京ドームで「2番・セカンド」とアナウンスされ、必死の思いで車イスから立ち上がろうとしました。スタンドからの拍手はもうたまらない気持ちになった。このまま死んでもいいと思ったくらいです。

 そしたら、後ろにいた上田武司が「土井さん、帽子を振ってあいさつもしろ」と言うんです。「そんなことしたら、ひっくり返っちゃうよ」と返すと、「大丈夫、オレが支えとくから」と。
 あの場面、僕がひとりで立っていたことになっていますが、本当は上田がズボンのベルトをギュッと握って、後ろから支えてくれていたんです。このように皆の協力があって、僕はグラウンドに生還できたんです。

 巨人に入ったのは65年です。僕は大学時代まではショートでした。あの頃はショートが内野の華で、セカンドは野球の下手クソがやらされているポジションというイメージがありました。
 1年目は広岡達朗さんと半々でショートを守りました。当時のセカンドは須藤豊さん、塩原明さん、滝安治さん……。セカンド転向の話が持ち上がった時は「これが千載一遇のチャンスだ」と思いました。
 というのもショートで上手くなる可能性は仮に自分のキャパシティが100あるとして、もう80%は超えている。しかしセカンドはまだ何も試されていないわけだから、どこまで伸びるかわからない。自分でも「日本一のセカンドになれるんじゃないか」という期待がありました。

 でも、やってみるとセカンドというポジションは難しかった。ショートと動きがすべて逆になるんです。しかもプレーに時間をかけられないため、小さくて平らなグラブを使わなければならない。極端に言えば、ただグラブにボールを当てているだけ。あとは(ボールを投げる)右手の仕事。いかに速く持ち替えるか。そこが勝負です。
 当時、中日に高木守道さんという名セカンドがいました。バックトスが絶妙なんです。しかし、よく観察すると、そのバックトスのミスで何度か落としたゲームがあった。プレーは派手だけどリスクを伴う。常に優勝を義務づけられている巨人では、そんなプレーはできない。だから?9の頃、僕は意識的にバックトスを使わなかった。使い出したのは、チームが弱くなり始めてからです。

 王、長嶋を怒鳴る

 僕は誰よりも向こう意気が強かった。巨人に入団した頃は、いわゆるヤンチャ坊主でした。そんな僕を川上さんは掌の上で遊ばせてくれました。その川上さんの口ぐせは「世界に多くの人々がいる中で、我々は同じ目標に向かって全員が力を合わせて仕事をする。これは奇跡に近い。このつながりを大切にしよう」というもの。他のチームの監督が“打倒巨人”を目指す中で、川上さんはひとり遠くを見ていた。勝敗を超越したところにいる人でした。
 しかし僕は誰が相手でも容赦しなかった。たとえ相手が長嶋さんであってもです。あれは僕がまだショートを守っていた時のこと。長嶋さんはバッティングの調子が悪くなると、守っている時にグラブをバット代わりにしてスイングをチェックしている。ピッチャーの投球なんて、お構いなし。
 そんな時は僕の出番です。「サード、何やってるんだ!」。本気で怒鳴りましたよ。長嶋さんは「ウン、ウン」なんてうなずいて、バツの悪そうな顔をしていましたが……。
 王(貞治)さんも同じです。王さんはスランプに陥ると下を向くクセがあった。ファーストを守りながらずっと地面をならしているんです。「ファースト! ピッチャー放るやないか!」と注意すると、「いや、オレんとこには飛んでこないよ」なんてシラッと言うんです。長嶋さんも王さんも「地球はオレを中心に回っている」と思っているんです(笑)。困ったものでした。

 しかし、それでも僕たちが長嶋さん、王さんについていったのは、2人の練習量がハンパではなかったからです。当時、遠征先の旅館は3人部屋でした。バットは床の間に置いてある。夜中にブーン、ブーンと音がして、振り返ると長嶋さんが一心不乱にバットを振っている。起きたら殺されるんじゃないかと思ったものです。王さんの練習も鬼気迫るものがありました。
 また、当時の巨人は家族ぐるみで戦っていた。僕らの時代はテレビ中継の時間が短く、1試合で2打席しかテレビに映らなかった。それを女房たちが夕飯の支度をしながら、ビデオに収めていたんです。でも今は違いますね。たとえばランナーが一塁に出ると、必ず一塁コーチが何か耳打ちしている。あんなのはおせっかいですよ。ピッチャーの配球はすべてスコアラーが調べ上げる。これも過剰サービス。至れり尽くせりではチームは強くなりません。

 もちろん巨人には今でも愛情があります。そこで、ひとつ提案をしたい。
 それは8月15日、つまり終戦記念日にだけは漢字の背番号と「巨」のマークで試合に臨んでみてはどうか、ということです。戦争中、英語はもちろん、洋数字も禁止された。野球界にとっても不幸な時代でした。
 それを風化させないためにも、そして全国に平和のメッセージを発信するためにも、1年に1度、戦争中のユニホームを着て試合してはどうか。ぜひ実現してほしい。

 なぜイチローを二軍に落としたか

 イチローについてもお話したいことがあります。世間の僕に対する評価は「イチローを二軍に落とした監督」というものですが、その深い理由については未だに理解されていません。イチローは僕がオリックス監督2年目を迎える前に獲った選手です。ドラフトで指名する前、彼のバッティングのビデオを観ました。
 ちょうどオリックスは西宮球場から広いグリーンスタジアム(現スカイマークスタジアム)に本拠地を移した後でした。ブーマーや門田博光のような打つだけの選手はいらない。足と肩のあるフレッシュな選手がほしかった。
 そこで僕の目に留まったのがイチローでした。当初、オリックスはイチローを5位で指名する予定でした。他に彼に目をつけていたのは日本ハムと地元の中日。まず中日ですが、当時、監督だった星野仙一が「あんな細いのはアカン」と見限ったことで、ここは消えました。ライバルは日本ハム1球団。
 ここは最後まで何位でくるのかわからなかった。是が非でもイチローがほしい僕は「4位にしてくれ」と指名の順位をひとつ上げるようスカウトに要求しました。しかし、オリックスのスカウトは「4位は北川晋」で決定していた。担当スカウトは「オレの立場はどうなるんだ」と言って怒っている。

 それで僕は折衷案を出しました。「5位の選手には4位と同じ契約金を用意して2人とも獲ろう」と。我ながらいいアイデアでした。結果的には2人とも獲れたわけですから。
 僕はイチローを長い目で見ながら育てようと考えました。そのためには1年間、ファームで“放牧”が必要だった。いっぱい食べさせて、練習させて、早く青年の体にしてやろうと。というのも、当時のイチローは少年のような体つきだった。大学や社会人出身の選手とは、明らかに肉体的な面でハンデがありました。
 ただ、バッティングセンスは素晴らしかった。ルーキーの年、ウエスタンリーグではオールスター前に3割7分くらい打っていた。一軍で使ってもそこそこやるんです。

「これが巨人のルールだ」

 それ以上に感心したのが、彼の人間性。1年目、彼はジュニアオールスターゲームに出て、いきなりMVPを獲った。その時の賞金が100万円。そのうちの半分の50万円を神戸の養護施設に寄付するっていうんです。ベテランの選手たちは「アイツ、格好付けやがって」と冷ややかな目で見ていました。
 もしかしたら父親のアイデアだったかもしれません。仮にそうだとしても18歳の少年ができることではありません。結局、それを聞いた宮内義彦オーナーが「オレのポケットマネーだ」と言ってポーンと100万円、寄付を肩代わりしてくれたんです。
 2年目になるとイチローの体も随分、たくましくなりました。外野手として、5番目くらいの選手にはなっていました。しかし、まだまだ走塁面などは未熟でした。というのも彼は高校時代まで、ずっとピッチャーをやっていた。足は速かったけれど、基本の部分ができていなかったんです。
 シーズンの中盤、点差のあいだゲームで僕はイチローを代走で使った。するとサインも出していないのにスルスルッと離塁して牽制でタッチアウト。その後、監督室にイチローを呼び、告げました。「明日からファームだ」。
 イチローは僕の目の前で大泣きしました。「もうあんなチョンボはしませんから、一軍に置いてください」。
 その時に思いました。「この必死さがあれば、彼は必ずモノになる」と。

 正直に言うと、僕はイチローを二軍に落とすきっかけを探っていました。それは次のような経験を巨人にしたからです。
 僕が4年目の時、即戦力ルーキーとして明大から高田繁が入団しました。高田は走攻守三拍子揃った選手で、プロとして必要なものをすべて身につけていた。首脳陣の評価も高かった。
 ところがある日、広島市民球場での試合でちょっとしたミスをした。その日はものすごく風が強かった。ライトへの高いフライ。僕は自分が捕れると思って「オーライ、オーライ」と声を発しながら、打球を深追いした。
 風に流された打球はセカンドとライトの間にポトリ。その夜、高田はマネジャーに二軍行きを通告され、夜行列車で多摩川に帰されてしまった。
 あまりに気の毒なので、僕は牧野茂さん(当時の守備コーチ、故人)に「あれは深追いした僕の責任。高田に非はない」と言いました。だが「中間打球は外野手が捕る。これが巨人のルールだ」の一点張り。取り付くシマもない。
 その時、僕はまだプロ4年生なので、川上さんと対等に話せる立場ではありませんでした。それで6連覇か7連覇を達成した頃でしょうか、川上さんに聞いたことがある。「昔の話ですが、高田の二軍落ちについて、牧野さんからこんな説明を受けました。僕はまだ納得できません。監督はどうお考えだったんですか?」と。
 すると、川上さんは顔色ひとつ変えずに、こう返しました。「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす。あれと一緒じゃ。高田は間違いなく、将来、ウチを背負って立つ選手になる。もし、あそこで何も罰を与えなかったら野球をナメてしまう。だから、敢えて厳しくしたんだ」と。

 イチローからのメッセージ

 そのことが頭に残っていたものだから、イチローにも厳しく接してしまった。ただ、僕自身、反省もあります。僕たちの時代は監督命令は絶対で、選手に説明する義務なんてなかった。でも今の若い子には、きっちり説明すべき点は説明してからでなければならない。
 この時の苦い経験は3年後、巨人の総合守備コーチに就任した時に、随分生きました。二軍に落とす選手に対しては二軍コーチに「この選手にはこんな指導をしている。そこを継承してくれ」といった具合に丁寧に指示を出しました。今の子供を育てようと思ったら、「後は自分の力で這い上がってこい」というだけではダメなんですね。
 この前、共通の友人を通して、イチローから「シーズンが終わったら、土井さんのお見舞いに行きます」とのメッセージが届けられた。花も病室に届けてくれました。イチローの活躍が闘病生活の励みになっていることは言うまでもありません。

<この原稿は2007年11月号『月刊現代』(講談社)に掲載されたものです>