古くは長谷川良平、昭和40年代に入って安仁屋宗八、外木場義郎、そして黄金期の大エース・北別府学に、佐々岡真司――。たしかに、3文字名字の投手は、カープでは成功するというジンクスがある。もちろん、大久保美智男のように、うまくいかなかった例もあるのだが。

 残念ながら、長谷川良平を生で見たことはない。昭和381963年まで投げているので、運が良ければ小学校低学年で見た可能性はあるのだが、少なくとも記憶にない。いずれにせよ、世代的に全盛期は見られなかったことになる。

 昭和30年代の記憶でいうと、大エースは大石清だった。記録を調べると、20勝以上したのが昭和35~37年(36年は27勝!)。「大石は20勝投手じゃけえ」という声が広島市民球場に響いていた。人生で最初に出会ったエースは大石清なのである。

 その「大石時代」の後を襲って、さっそうと登場したのが安仁屋と外木場だ。安仁屋が昭和43年に23勝、外木場は初優勝の昭和50年に20勝するのだが、なんといっても、昭和40年のノーヒットノーランでのプロ初勝利ノーヒットノーランが鮮烈だった。以来、個人的には安仁屋より外木場だった。

 北別府は、あの初優勝した秋のドラフト1位である。以来、長くエースであり続けた。

 同じ3文字姓でも、外木場は真っ向からの豪速球とカーブ、安仁屋はサイド気味に迫力あるボールを投げ込んだ。北別府は、この2人とはタイプが違う。

 安仁屋、外木場は体に幅があってごつかったが、北別府はやや細い。そして豪球というよりは、ご存知の通り、針の穴をも通すコントロールで勝負した。
 
 ただし、ここがかんじんなところだが、北別府のフォームは実に理にかなっていて無理がなく、しなやかだった。下半身主導で、ボールに体全体の力を伝えるからボールに伸びやキレがあった。これが長くエースであり続けた理由である。

 佐々岡もどちらかといえば、体に幅のある投手だと言えよう。背番号18が前田健太に移ったとき、やけに小さく見えましたものね。極端にいえば、カウント球も勝負球もスライダー。パワー・スライダーの投手だった。

 さて、大瀬良大地。
 いわずと知れた3文字姓である。はたして彼は大成できるだろうか。

 勝負は実際にプロに入ってからで決まる。ただ言えることは、彼は北別府型ではなさそうだ。しなやか、というよりも力強い。体もごつい。

 では外木場かというと、彼外木場ほどのバネ、リズム感、躍動感を感じない。大瀬良のカットボールと外木場のカーブとでは球質が異なる。

 もちろん、大瀬良は大瀬良らしい3文字エース像をつくってくれればいいのだが、もしかして、大石清みたいになってくれたらいいな、と記憶を呼び戻しながら思っている。

(このコーナーは二宮清純が第1、3週木曜、書籍編集者・上田哲之さんは第2週木曜を担当します)

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