マエケンといえば、野球ファンなら、もう誰だかピンとくるだろう。広島の若きエース、前田健太。低迷が続くチームの中、ひとり気を吐き、ここまでリーグトップタイの12勝をあげている。防御率、奪三振も1位で投手3冠は射程圏内だ。プロ4年目のマエケンが今季、大きな飛躍を遂げた秘密はどこにあるのか。二宮清純が本人を直撃取材した。
(写真:このところピンチを迎える場面も増えてきたが、「ランナーが出ないとギアが入らない」と笑う)
 ムチのように腕がしなった。リリースの瞬間だけ指先に力を込めた。ストレートが低めにスッと伸びた。初めての感覚だった。
 今年4月8日、21歳最後の登板になることが確実とあって、この日は心に期するものがあった。

 神宮球場での東京ヤクルト戦。3回1死1塁の場面でマエケンこと広島の先発・前田健太は打席に2番・田中浩康を迎えた。
 カウント2−2。キャッチャーの石原慶幸は低めにミットを構えた。サインはストレート。モーションを起こした時、まさかこれから投げる1球で運命が拓かれるとは想像もしていなかった。

「あれで掴んだんです」
 マエケンは切り出した。
「これまでは腕に力を込めてストレートを投げていた。どんなに力を入れても150km/hは出なかった。
 ところが、この1球に限ってはストライクを取りにいこうと“抜き加減”で投げた。リリースの瞬間のみ100の力を集める。あとは無駄な力を一切、使わない。極端に言ったら、体全体から力を抜いてからイメージ。すると驚くほど低めにボールが伸びていった。結果は見逃し三振。“あっ、こういう投げ方をすればボールがいくんだ”。ストレートのコツを初めて掴んだ瞬間でした」

 このゲーム、マエケンは8回を投げ、1点も許さなかった。被安打4、奪三振8。完璧なピッチングで今季2勝目を記録している。
 今季、ここまで(8月15日現在)マエケンは21試合に登板し、セ・リーグトップタイの12勝(6敗)を挙げている。防御率2.31、奪三振127。いずれもリーグトップ。

 初めて出場したオールスターゲームではヤフードームでの第1戦に先発し、2回をパーフェクトに抑えた。風格を漂わせるマウンドだった。
 150km/h近いストレートと昔でいうドロップのように落差のあるカーブ。そして切れ味鋭いスライダー。どれもが一級品だ。

 大化けの理由は何か。PL学園の先輩にあたる元巨人の橋本清は語る。
「やっぱりストレートでしょう。これまでは140km/h台中盤だったストレートが150km/h台に乗ったことでピッチングの幅が広がった。カーブもスライダーもウイニングショットに使うことができる。
 今、マエケンは巨人の東野峻と最多勝争いをしています。それでキャッチャーの阿部慎之助に“どっちがいい?”と聞いたんです。
 すると“総合力ではマエケン。今、セ・リーグじゃナンバーワンですよ”という答えが返ってきた。慎之助にこう言わせるのだから本物でしょう」

 新人王の有力候補である巨人の長野久義にも訊いた。
「驚いたのはスライダー。打つ直前でキュッと曲がるんです。こっちはストレートだと思って打ちに行っているのでバットに当てることもできない。あんなスライダー、初めて見ました」

 マエケンの今季の成長ぶりを裏付けるゲームを2つ紹介しよう。まずは4月21日、甲子園での阪神戦。1対1。8回裏、阪神は1死満塁のチャンスをつかんだ。打席には昨季までメジャーリーグでプレーしていた城島健司。勝負強さは折り紙付きだ。
 0−2(2ボールナッシング)からスライダー、ファウル。続いて真っすぐ、ファウル。最後は外角にスライダーを配して空振り三振に仕留めた。
 1−2という絶好のヒッティングカウントで城島はストレートを待っていた。注文通りのボールを投げ、ファウルでカウントを稼いだ。ストレートへの自信を窺わせた瞬間だった。

 2死満塁。なおもピンチは続く。打席には6番グレイグ・ブラゼル。さながら前門の虎、後門の狼である。
 0−2から高めにスライダーを滑らせた。ブラゼルがローボールヒッターであることを知っての配球だ。空振り、1−2。次も同じように高めのスライダー。再び空振り、2−2。決め球はヒザ元へのスライダー。ブラゼルのバットは3度、空を切った。
(写真:スライダーはプロに入って感覚をつかんだ。今ではカーブと並ぶ武器になっている)

 続けざまに高めを攻められると、どうしてもバッターの“目付け”は高くなる。目線を吊り上げるだけ吊り上げておいて、一転、低めを突けばブラゼルでなくても、その高低差にバッターは為す術がない。

「ブラゼルというバッターはインハイを苦手としている。そこを攻めておいて、最後は彼が好きな低めにスライダーを投げた。好きな高さから、もうひとつボールを落としたんです」
 してやったりという表情でマエケンは語った。視覚の罠――最大のピンチで22歳はそれを巧妙に利用したのである。

 2つ目は5月15日、本拠地マツダスタジアムでの北海道日本ハム戦。日本ハムはダルビッシュ有が先発した。相手に不足はない。
 予想通り、ゲームは力のこもった投手戦となった。このレベルの投げ合いはメジャーリーグでも、そう観られるものではない。

 8回が終了し、0対0。
「僕は最後まで投げる気でした。9回は3人でしっかり終わりたいと……」
 圧巻は9回2死での6番・高橋信二との対決だ。昨季は初の打率3割(3割9厘)をマークしたクラッチヒッターだ。

 初球、外角にスライダー。見逃し、ストライク。
 2球目、外角にスライダー、空振り。
 3球目、外角にスライダー、空振り三振。

 これだけ見ればワンパターンの配球のように映るが、ここにも罠が用意されていた。マエケンの述懐。
「この時はボール1個分ずつ、外にずらしているんです。3球目は完璧なボール球だったと思います」

 実は、高橋に対しては前の打席もスライダーでセンターフライに打ち取っていた。次の打席は打ち取られたボールを待つ。それがバッターの習性だ。ゲームも終盤になれば、なおさらである。やられっぱなしで終わりたくないという思いが強く働くのだ。

 マエケンはそうした打者心理を逆手にとってエサを撒いた。もちろんエサの下には落とし穴が周到に掘られてあった。
 恐るべき22歳。どんな少年だったのか。

(後編につづく)

<この原稿は2010年9月4日号『週刊現代』に掲載されたものです>