ポスト高田は生え抜きの荒木大輔(現1軍チーフ兼投手コーチ)――。それが球団の既定路線だった。
 荒木といえば甲子園の申し子だが、小川も負けてはいない。75年の夏、千葉・習志野高のエースとして全国制覇を達成しているのだ。
(写真:「僕も次(の監督)は(荒木)大輔だと思っていた」と率直な心境を明かす)
 35年前の夏の記憶は鮮明に残っている。本格派のタフなピッチャーだった。5試合をたったひとりで投げ抜いた。ストレートとカーブだけで打者を牛耳った。打っては5番。文字どおりチームの大黒柱だった。
 決勝の相手は愛媛の新居浜商高。サヨナラで習志野に凱歌があがった。投げ合った村上博昭にはこんな思い出がある。
「3対0でウチがリードしている場面、ノースリーから三遊間を破られた。普通のバッターは、このカウントから打ってこない。“気持ちの強い選手だな”と思いましたね」

 中央大に進学後、野手に転向し、4年時には日米野球の学生日本代表メンバーに選ばれた。岡田彰布(現オリックス監督)、原辰徳(現巨人監督)とクリーンアップを組んだ。その後、社会人の名門・河合楽器へ。都市対抗にも2度出場した。

 ヤクルトには82年、ドラフト4位で入団した。この年の1位はアンダースローで一世を風靡した宮本賢治だ。
 アマチュアとしては、これ以上ないと思えるほどの華麗な経歴である。にもかかわらず加齢臭ならぬ“華麗臭”がしないのは、なぜなのか。

 高校、大学で対戦し、プロでチームメイトとなった片岡大蔵(現スコアラー)は小川の人となりを最も知る人物のひとり。
「本当にまじめな男。ある程度の年齢になれば、自分の練習が終わったら、さっさと帰りますよ。ところが彼は最後まで残って球拾いをしている。それを見た関根潤三監督(当時)が“オマエら、小川を見習え!”と褒めていたことを思い出しますね。
 それはコーチや監督代行になってからも全く変わりませんでしたね。神宮で会うと必ず“お疲れ様”“大変だな”と声をかけてくれる。彼はそういう気配りのできる人間ですよ」

 片岡は4年で現役を引退し、バッティングピッチャー(BP)になった。打者に気持ちよく打ってもらうのがBPの仕事である。要求したコースにボールが行かないと打者から冷たい視線を向けられる。
 ところが小川だけは違ったと片岡は言う。
「どうしても10球のうち1、2球はボールになってしまう。そんなボール球でも、ありがたいことに小川は打ってくれるんです。一度、申し訳なくて“あまり気を遣わないでくれよ”と言いました。すると“大丈夫だよ”と言って、またボール球を打ってくれたんです。本当に超の字がつくほどいいヤツです」

 この記事を書くにあたって、そんな一面もあったのかと思えるような意外なエピソードを探してみた。だが、これが全く出てこないのだ。切った張ったの勝負の世界で、これだけ裏面のない人も珍しい。
 ヤクルトで先輩にあたる八重樫幸雄(現スカウト)の小川評はこうだ。
「クソがつくくらいまじめな男。現役の頃は酒も飲まなかった。ジュースばかり飲んでいたかな。ビールならぬジュースの一気飲み。ハメをはずした姿なんて見たことないですね。“監督になったんだから、もっとパフォーマンスしろ”という声もあるようにですけど、彼には似合わない。今のままでいい。そういう素朴な監督がひとりくらいいても悪くないでしょう」
 そして、八重樫はボソッとこんな印象を口にした。
「彼は千葉出身のはずなんだけど、なんか東北人っぽいんだよね」
 ちなみに八重樫は仙台の出身である。

 小川のプロでの実働は11年。ヤクルトで10年、日本ハムで1年プレーした。
 主に外野手として940試合に出場し、412安打、66本塁打、195打点という記録を残している。通算打率は2割3分6厘。典型的なバイプレーヤーだった。
 指導者としての基礎をつくったのは知将・野村克也である。プロ入り9年目、野村がヤクルトにやってきた。ユマキャンプで小川はID野球の洗礼を受ける。
「野村さんといえば、ミーティング。毎日、ずっとやると聞いていました。最初の不安は“寝ちゃったら、どうしよう”(笑)。でも、いざ始まったら寝るどころじゃなかった。もうノートをとるのに必死。大学の講義だって、あんなにまじめに受けたことはありませんでした」

 ある日のミーティングで野村はいきなり小川に質問をぶつけてきた。
「バッティングとはなんだ? 小川」
「えーっ!? ボールをよく見ることでしょうか?」
「違う。バッティングは最大の攻撃手段だ」
 禅問答である。ベテランの知力を試すことで、野村はチームのレベルを把握しようと考えたのだろう。

 小川には忘れられない試合がある。90年4月28日、神宮での巨人戦だ。
 ピッチャーはサウスポーの宮本和知。彼のカーブはタテに割れる。小川はその前の打席までカーブで2三振を喫していた。
 ベンチに帰ると、野村のカミナリが待っていた。
「オマエ、何年、野球やっているんだ!」
「……」
「(キャッチャーの)山倉(和博)の性格を考えろ。初球は真っすぐがくる。その後は真っすぐと思わせておいてカーブだ」
 要するに山倉は前の打席で三振にとったカーブで、また勝負してくる。ならば初球のストレートは見逃し、2球目以降のカーブを待てというアドバイスだ。

 初球、野村の見立てどおりに真っすぐがきた。
「あぁ、本当に真っすぐがきちゃったよ」
 そしてワンスリーのカウントに。小川は真っすぐを得意としていた。しかし野村の指示はカーブ狙いだ。
「またカーブがくるのかなぁ……」
 すると、本当にカーブがきた。後方へファール。フルスイングしたことで軌道のイメージがつかめた。野村が予言者のように思えてきた。

「こうなったら、また次もカーブだよな」
 今度はドンピシャのタイミングでカーブをとらえることができた。打球はレフトスタンドへ消えた。
「ほれ見ろ」
 小川を出迎えたのは野村のドスの利いた声だった。
「はぁー、このおっさん、スゴイな」
 ID野球信者になるのに時間はかからなかった。

 野村にはいつも叱られてばかりいた。それだけにたまに向けられる褒め言葉がうれしかった。
「ある試合で、僕がレフトの守備固めに入ったんです。自分としては普通に打球を処理したつもりだったんですが、翌日、神宮に来るなり、“小川、昨日はナイスプレーだったな。うまいヤツの追い方だ、あれは”と声をかけていただいた。いきなり言われてビックリしたんですが、ちゃんと見てもらっているんだなと。控えの多かった僕のような選手にはうれしい一言でした」

 野村の教えは、コーチや2軍監督になってから生きた。
「野村さんは、よく“人間的成長なくして、技術の進歩なし”と語っていました。この言葉の意味が今になってわかるんです。
 野村さんが監督をしていた頃、身だしなみにはうるさかった。茶髪、長髪、ヒゲは禁止でした。それが僕が2軍監督になった頃にはだんだん緩くなってきていた。それをもう1回、厳しくしようと。特に2軍の若い選手には、野球以外の部分が大事になってきますね」

 シーズン終了後、「代行」の2文字がとれて、晴れて「監督」になった。苦労人の昇格人事には選手の間でも歓迎ムードが漂う。
 エースの石川雅規は言う。
「小川さんがヘッドコーチから監督代行になって、いい意味でチームが変わりました。小川さんは僕や青木にもズバッと言ってくれるので、僕らはやりやすいし、また、やらなければという気にもなる。
 目指しているのは野村さんの野球ですね。細かいことをしっかりやっていこうと。時間にもうるさい。でも、それは小川さんの色なので、いいことだと思います」

 十人十色、果たして小川野球はどんな色なのか。
「色って最初からついているものでしょうか。これは僕の勝手な解釈かもしれませんが、色って後でわかるものだと思うんです。僕の場合、まだ監督としての実績はほとんどない。色なんかついているわけないじゃないですか」
 白地のキャンバスに絵を描く作業は、まだこれからなのだと苦労人は言いたかったに違いない。

 2軍監督、9年。雌伏から至福へ――。来季は采配が名刺となる。

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<この原稿は2010年11月15日号『週刊現代』に掲載されたものです>