ロッテの新チームリーダーは彼しかいない。
 今江敏晃、27歳。今年で節目のプロ10年目を迎える。昨季、史上最大の下剋上を達成したチームはキャプテンの西岡剛がメジャーリーグに移籍し、抑えの小林宏之もFA宣言した。2年連続の日本一を達成するには、西村徳文監督が掲げる「和」の力が何より必要だ。ここ数年伸び悩んでいた個人成績も2010年は自己最高の打率(.331)をマークし、壁を破った。名実ともにロッテの顔になることが期待される2011シーズンに向け、二宮清純が取材を試みた。
(写真:注目されればされるほど「ワクワクする」性格が勝負強さの源泉だ)
 日本シリーズに2度出場して、2度ともMVP。千葉ロッテマリーンズの今江敏晃は流行りの言葉で言えば、「持ってる」男である。いや、「持ちすぎている」といっても過言ではない。

 昨季の日本シリーズはレギュラーシーズン3位から勝ち上がったパ・リーグ選手権者の千葉ロッテがセ・リーグ覇者の中日を4勝2敗1分けで降し、5年ぶりの日本一を達成した。
 今江は7試合で27打数12安打、打率4割4分4厘、6打点。守ってはノーエラーの大活躍で、先述したようにMVPに選ばれた。

 ――どのヒットが一番印象に残っているか?
 私の質問に今江は意外なセリフを口にした。
「いや、ヒットではなく、初戦の1打席目の送りバントのほうが印象に残っています」
 10月30日。敵地ナゴヤドーム。2回表、無死一塁の場面で5番の今江に打席が回ってきた。

 中日の先発はエース吉見一起。今季は開幕投手を務め、シーズン12勝(9敗)をあげたライトハンダーだ。
 初球、中腰に構えた今江は投手前、やや三塁寄りに打球を転がした。2死後、7番・大松尚逸がライトフェンス直撃の二塁打を放ち、ロッテが先制した。今江の犠牲バントが演出した先取点だった。

「このバントが僕の日本シリーズのすべてやったと思うんです。レギュラーで試合に出ると、だいたい4打席巡ってくる。僕は4打席の中でやりくりするタイプ。1打席目は感覚的に相手のピッチャーに合わせられないことが多い。
 それが最初に送りバントを成功させたことで精神的に余裕が生まれ、気持ちも乗っていけた。それがこの試合、3本のヒットにつながったと思っています」

 シリーズ最大のヤマはロッテが3勝2敗と王手をかけて迎えた第6戦だった。2対2のまま延長戦に突入し、15回が終了しても決着がつかず、規定により引き分けた。試合時間5時間43分はシリーズ史上最長だった。
 延長に入って押し気味に試合を進めたのは中日だった。延長14回裏も2死二塁と、一打サヨナラの場面をつくった。バッターは強打の5番トニ・ブランコ。サードの今江はブランコの足を考え、やや下がり気味にポジションを取った。

 打球は高いバウンドとなって今江の前へ。運の悪いことに打球は三塁部分のアンツーカー(土)と人工芝の境目に当たり、不規則にハネた。打球をそらせばサヨナラ負けである。前に出るか、待って捕るか。一瞬、迷ったが、今江は後者を選択した。
「とりあえず一塁はセーフになっても打球を止めようと。試合が長引くとアンツーカーの部分が荒れてくる。普通、こういう高いバウンドは前に出ないと捕れない。でも後ろにそらしたら点が入る。止まって捕るしかないと……」
 とっさの判断は的中した。派手ではないが、頭脳的なファインプレーを普通のサードゴロに見せたところに27歳の成長の跡がうかがえた。

 守備の名手に贈られるゴールデングラブ賞を過去に4度、受賞している。素人同然だったサードの守備を一人前に育て上げたのは現監督の西村徳文である。
 西村の述懐。
「今江がプロ2年目の年です。僕はこの年、二軍の内野守備走塁コーチになった。高校時代、ショートをやっていた今江には明らかな欠点がありました。逆シングルでゴロが捕れないんです。上体が前に突っ込むため、捕ってから投げるのに時間がかかる。しかもグラブは打球に対して下から上へ動かすのが基本なのに、上から下へ持っていく。足の使い方もまったくできていなかった」

 鉄は熱いうちに打て――。
 理論の前に、西村はゴロの捕り方、三塁手としての身のこなしを体で覚えさせた。それが一流への通過儀礼だと信じて疑わないのは、自らが叩き上げの男だからである。
 西村はプロ入り1年目のオフにスイッチヒッターに転向し、9年目で首位打者に輝いた。足が速いからという理由でスイッチに挑戦したが、さりとて誰もが成功するわけではない。

 西村は手の皮がむけるほど素振りと打ちこみを繰り返した。ティーバッティングだけで1日1200本以上は打ったというのだから、練習の過酷さは想像して余りある。
「一番困ったのは朝、起きた時に手がこの状態(拳を握った状態)で動かないことです。関節が固まってしまって開けない。だから、“グー”のまま顔を洗わなくてはいけなかった。最初の1週間くらいはそういう状態が続きました」
 よく「血のにじむような努力」というが、西村の場合、それは決して比喩ではなかった。

 いきおい、コーチになればノックバットを振る手にも力がこもる。質の前に、まず量をこなせ、というのが西村の基本的な指導方針である。
 浦和に本拠を置く二軍の試合はだいたい昼間の1時にスタート。終われば4時頃だ。そこからマンツーマンでの猛特訓が始まるのだ。

 振り返って今江は語る。
「(ボールを入れる)箱にきれいに詰めると、だいたい120球入るんです。バラバラに入れると100球くらい。それを多い時で4箱くらい空になるまで西村さんは僕にノックするんです。終了するまで2時間から3時間。守るほうもヘトヘトなら打つほうもヘトヘトだったでしょう」
 伝説の400本ノック。浦和の夕陽が猛特訓の証人である。

 今江のニックネームは「ゴリ」だ。子供の頃からいかつい体をしていた。
「小学生の頃から人一倍、体が大きかった。投げても走っても打っても全部一番。子供心に確実にプロ野球選手になれると思っていました(笑)」
 中学に入ってボーイズリーグに所属した。かつては桑田真澄や立浪和義、近年ではダルビッシュ有、田中将大、前田健太らもこのリーグの出身である。甲子園、そしてプロへの登竜門といっても過言ではない。
(写真:実際は「(ゴリラよりも)イチローさんに似ていると言われることが多い」とか)

 今江は京都田辺ボーイズに入った。1年先輩には巨人の内海哲也がいた。投げても打っても他の選手より頭ひとつ、いやふたつ抜きん出ていた。
 当時、対戦したのが大阪平野富士の朝井秀樹だ。その後、揃ってPL学園高に進み、彼は近鉄に入団する。昨季途中、東北楽天から巨人に移籍し、先発ローテーションの一角を担った。

「中学時代、今江には初めての練習試合でいきなりホームランを打たれました。左中間へ完璧にね。
 その後、オール関西の選抜チームに2人とも選ばれたんですが、プロが使う神戸のグリーンスタジアム(現スカイマークスタジアム)のレフトスタンドに軽々とホームランを打っていました。飛距離といい、打球の速さといい、格が違いましたね。
 なにしろ中学の時点で、身長はもう180cmくらいありました。最初の練習試合の時に“今江って、どこにおるんや?”とチームメイトとしゃべっていたら、コーチだと思っていた人がいきなりグラウンドコートを脱いだ。背番号1が見えた。“えっ、あれが今江か!?”。その大きさに圧倒されましたね」

 高校を選ぶにあたっては2つの選択肢があった。ひとつは地元・京都の鳥羽、もうひとつがPL学園である。迷っている頃、PLに進学している先輩から電話が入った。
「甲子園に行きたいんやったら鳥羽がいいかもしれない。プロ野球選手になりたいんやったらPLに来たほうがいい」
 その一言で進路は決まった。新入部員には朝井の他、桜井広大(現阪神)、小斉祐輔(現福岡ソフトバンク)らがいた。

(後編につづく)

<この原稿は2011年1月15・22日号『週刊現代』に掲載されたものです>