PL学園の河野有道監督は今江を一目見て、「これは将来、プロに行ける素材だ」と確信した。
「体はできていたし、バッティングも飛距離、スイングスピードすべてにおいて素晴らしかった。
 当時、同学年に今、西武で活躍している中村剛也(大阪桐蔭)がいた。今江が剛なら中村は柔というイメージでした。
 あえて難点をあげるとすれば、いかり肩で、やや力が入りすぎるところがあったんです。でも細かい部分は上(プロ)で直してもらえればいいと思って、余計なアドバイスはしませんでした」
(写真:ミートポイントを後ろにする打者が主流になりつつある中、逆に今江は前でボールをとらえる)
 ライバル校、大阪桐蔭の西谷浩一監督は今江をどう見ていたのか。
「本当はウチに来てもらいたかった。もう中学時代に今のプレースタイルは確立されていましたね。高校に入って彼が打席に立つと、“また今江か”とイヤな気分になったものですよ(苦笑)。中村と比べると当時は雲泥の差でしたね」

 高2の夏、初めて甲子園に出場した。今江は4番ショートだった。1、2回戦とヒットを放ったが、3回戦の智弁和歌山戦では無安打に終わり、チームは打撃戦の末、7対11で敗れた。

 3年生がチームを去り、今江はキャプテンに選ばれた、「皆の相談にも乗ってくれるし、背中でも引っ張れるタイプ。今江以外にキャプテンは考えられなかった」と朝井。彼には実力だけでなく人望も備わっていた。
 だが、部員ひとりひとりの行動をすべて把握するのは困難である。最後の夏の大会前、不祥事が発覚する。下級生が上級生から暴力を受けていたとして、PL学園は6カ月間の対外試合禁止処分を下されたのだ。

「ショックというよりも後輩たちに申し訳なかったですね」
 表情を曇らせ、今江は続けた。
「練習は自粛で後輩たちは秋の大会にも出場できなくなった。問題が発覚して以降、1年生が3年生の世話をするPL独特の“付き人制”もなくなってしまいました」
 監督の河野も責任を取って辞任した(08年に復帰)。
「彼らにとっては本当に不幸な出来事でした。普段から不祥事を起こさないように指導はしてきたんですが、私の力不足でした。出場停止が決まった時には“将来があるんだから、野球だけは続けていこう”と話しました」
 
 今江はその年の秋のドラフトでロッテから3巡目指名を受け、入団した。
 先に紹介した西村の“400本ノック”を受けて成長した今江は入団4年目の05年、サードのレギュラーをつかみ、打率3割1分、8本塁打、71打点の好成績を残す。
 この年、巡回コーチを務めた高橋慶彦(現二軍監督)の今江評。
「アイツは手のかからない優等生でした。バッティングにしろ走塁にしろ、こちらから言うことはほとんどなかった。足はそこそこでしたけど、打球に対する状況判断などは西岡剛よりも良かったですよ。この前も“オマエくらいだよな。オレに怒られたことがないのは”という話になりました」

 千葉の新星が全国区になるのに時間はかからなかった。
 パ・リーグのプレーオフを制し、31年ぶりに出場した日本シリーズで阪神相手に初打席から、いきなり8打数8安打の日本記録をつくり、MVPに選出されたのである。
「あの時は別世界にいるようでした。何か神が降りてきたような感じ……」
 降りてきたのは神だけではなかった。第1戦の千葉マリンスタジアムには霧までが降りてきた。シリーズ史上初の濃霧コールドゲームは記憶に新しい。

 このシリーズの印象が強烈だったこともあり、翌年、今江は国・地域別対抗戦WBCの第1回大会の日本代表に選ばれた。指揮官は当時、ソフトバンクの監督をしていた王貞治である。サードのレギュラーは岩村明憲。今江はその控えだった。
 2次リーグの韓国戦。場所は米国・エンゼルスタジアム。2回、岩村が本塁突入の際に右太ももを負傷し、次の回から今江がサードに入った。

 列島に悲鳴が走ったのは、8回表だ。1死一塁の場面で韓国の1番・李炳圭の打球はセンター前へ。一塁走者が一気に三塁へ向かうのを見てセンターの金城龍彦がツーバウンドの好返球をサードへ送った。
 タイミング的には完全にアウト。ところが今江はタッチを急いだのか、このボールをポロリとこぼし、それが原因で2点を奪われる。結局、このゲーム、日本は1対2で敗れ、断崖絶壁に立たされることになる。

「今だから、こうやって話せるんですけど、あの時はもう日本に帰れないと思いました」
 宿舎への帰りのバスの中、傷心の今江を慰めたのが岩村である。
「バスに乗ると僕の隣がたまたま空いていた。だからアイツを呼んで“あれはオレでもエラーしていた。今日はサードが不幸になる運命なんだ。切り換えろ”と言いました。
 だからこそ決勝のキューバ戦でアイツが初回に2点タイムリーを放った時は、まるで自分のことのようにうれしかったですね」

 ところが、岩村の車内での慰めを、今江はまったく覚えていないのだ。そればかりか、ボールを落としたにもかかわらず、三塁塁審にアウトをアピールしたことも、「なぜかわからない」というのである。

 本当にそんなことがあるのだろうか。
 精神科医に訊くと、こうした症状を「心因性健忘」というらしい。ショックが強すぎると、身の回りに起きたことを、ほとんど忘れてしまうというのだ。本人が「人生最大のピンチだった」と振り返るのだから、その時間帯だけ記憶がスッポリと抜け落ちているのも無理はない。

 試合後、9歳年上の幸子夫人から電話が入った。
「もうやってしまったことは仕方ないんじゃないの?」
 どうってことのない一言だが、胸のつかえがスッととれた。
 穴があったら入りたいような大きなミスをしでかしたにもかかわらず、終わってみれば初代表で世界一。やはり今江は「持ってる」男である。

 昨季、彼は自己最多の140試合に出場し、3割3分1厘、77打点とキャリアハイを記録した。打撃開眼につながったのが、昨季から取り入れた“右目打法”である。
「バッティングって“後ろ(テイクバック)を小さく、前(フォロースルー)を大きく”ってよく言うでしょう? そのためにはこの打ち方が一番いいんです」

 少々、説明が必要だろう。
 一昨年の秋から打撃コーチの指導もあり、今江はミートポイントを後ろに置く打撃に取り組んだ。イメージとしては後ろ足(軸足)の前あたりでボールをとらえる。
 しかし、これだと、どうしてもボールを見過ぎるあまり体が浮いてしまう。今江の場合、ボールを目で追っているうちに力が上に逃げてしまうのだ。
(写真:ポイントを後ろにして打つと真っすぐに詰まり、変化球には泳がされた)

 これを解消するため、逆にポイントを前に持ってきた。幅にするとバット1本分くらい。前足の前あたりでボールを叩くのだ。そこで大切になるのが顔をピッチャーに正対させ、なるべく顔を固定させたまま「右目でボールを見る」ことである。
 かつてパ・リーグで3度ずつ打点王と本塁打王に輝いた長池徳士(元阪急)は、顔の位置を安定させるため、自らのアゴを左肩の上に乗せていた。今江はそこまで極端ではないが、打法としては長池に近い。プロに入って9年かかって手に入れたフォームは試行錯誤の結晶と言えよう。

 キャプテンの西岡がチームを去った今季、今江には精神的支柱としての役割も期待される。
「僕が監督なら今江にキャプテンをやらせる」
 そう断言するのはOBの小宮山悟だ。
「ロッカールームを見れば、だいたいその選手の性格がわかります。僕がロッテに戻ってきた時、一番ロッカーをきれいにしていたのが今江でした。だから僕は彼のロッカーに“美化委員”というシールを貼った。性格的にもまじめだし、そろそろチームを引っ張っていってもらわないと……」

 シリーズの8打席連続安打で全国区になり、皮肉にもWBCの落球で韓国でも有名になった男は栄光も挫折も、いやトラウマさえも糧にして成長を続けてきた。
 打順も1番と4番以外はすべて経験した。バントもできればホームランも打てる。ここまで何でもできれば、もはや「器用貧乏」ではない。「器用長者」というユニークな概念を彼は確立しつつある。
 
 この男、ここからがもっと、面白い。

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<この原稿は2011年1月15・22日号『週刊現代』に掲載されたものです>