日本プロ野球史上最高の名シーンといえば、1979年日本シリーズ、広島−近鉄の第7戦、9回裏の攻防をあげる人は少なくない。9回表を終わって4−3と広島1点のリード。あとアウト3つで初の日本一に輝く広島のマウンドにはリリーフエースの江夏豊が上がっていた。しかし、近鉄は無死満塁と一打逆転サヨナラの大チャンスをつくる。ここで江夏は代打の佐々木恭介を空振りの三振に仕留めると、続く石渡茂のスクイズを見破る。三塁走者はあえなくタッチアウト。最後は石渡のバットに空を切らせ、大ピンチを切り抜けた――。この絵に描いたようなドラマは“江夏の21球”と呼ばれ、多くのライターや評論家が題材にしている。あれから32年。当時、広島を率いていた古葉竹識監督に改めてシリーズを振り返ってもらった。
(写真:現在は東京国際大で指揮を執る。その鋭いまなざしはあの頃のままだ)
二宮: 1979年の日本シリーズは広島と近鉄、どちらが勝っても初の日本一ということで注目を集めました。古葉さんにとっては、1975年の初優勝時の日本シリーズで1勝もできずに阪急に敗れている(2分4敗)。今回こそとの思いがあったのでは?
古葉: それは本当に強い気持ちを持っていました。私は監督1年目で優勝してから、76、77、78年と優勝できなくて、いろいろ言われましたよ。78年のシーズンオフ、オーナーに食事に誘われた時にこう言われたものです。「オレはオマエがかわいいから、クビにはしない。でもファンが許してくれないぞ。4年も優勝できなかったら、覚悟しないといけないぞ」と……。
 こうしてスタートした79年はリーグ優勝こそ達成できたのですが、シリーズは最初に2連敗。新聞にも書かれましたよ。「古葉は精神的に弱い」と。その時、コーチとはミーティングでこんな話をしました。「もう1年間、言いたいことも言って、やりたいこともやってきたんだ。これでダメだったらしょうがない。責任はすべて私にある。コーチたちは何も余計なことを考える必要はない。今までやってきたことをやろう」。すると不思議なことに3連勝できたんです。

二宮: しかし、王手をかけた第6戦は2−6で敗れ、決着は最終第7戦にもつれ込みました。
古葉: そうですね。3勝2敗と王手をかけた時に第6戦で決着をつけたい気持ちはすごく強かったですね。一応、近鉄のホームゲームにですし、3勝3敗になると流れも変わってくる。

二宮: 第7戦は山根和夫投手を先発に立てました。彼は第5戦でも完封勝利をあげていますし、シリーズ男でしたね。
古葉: 彼にはフォークボールがありましたからね。(第1戦で投げた)北別府(学)にはストレートと緩い変化球、カーブ、スライダーを持っていましたけど、緩急の差があって、かえってヤマを張られていたんです。山根の場合には真っすぐとあまり変わらないフォークボールがあって、これがパ・リーグの打者には非常に有効でした。真っすぐと思って打ちにいって空振りしてくれましたからね。だからシリーズの途中から山根をローテーションの中心で考えるようになったんです。

二宮: このゲーム、江夏さんはヒザ元に落ちるカーブを多投しています。江夏さんは、そんなにカーブが得意なピッチャーではなかったのに、このボールを軸にしたのは、パ・リーグの打者が全体的に落ちるボールに弱いと知っていたからでしょうか。
古葉: そうでしょうね。南海時代に3年間、一緒にやっていましたから、バッターのことが分かっていたんでしょう。あんな何でもないカーブでストライクを取りに行くのかと心配するくらい、平気でスーッと投げていましたからね。それを近鉄の打者も打ってこなかった。近鉄の打者にしてみれば、ストレートに対する意識があったのかもしれない。緊張もあったのでしょう。普通だったら、どれか1球は外野フライを打たなきゃいけないボールです。

二宮: これはよく語られている話ですが、ピンチの場面で古葉さんはブルペンで池谷公二郎さん、北別府さんを準備させた。これが江夏さんには「オレを信用できないのか」と気に入らなかったようです。古葉さんも代えるつもりはなかったんですよね?
古葉: ええ。あそこで代える選択肢は100%ありません。彼は7回の途中から投げていて、もう3イニング目でした。もし、同点になって延長戦になったら4イニング目になる。彼のことなら「(延長戦でも)行く」というかもしれないけど、リーグ戦でも、さすがに4イニングは投げさせたことはない。となると、次の投手の用意をしておくことは監督としては大事な仕事でしょう。指揮官であれば、最悪のことを考えるのは当たり前ですよね。もちろん、江夏は気に入らなかったでしょう。それだけのプライドを持って投げてきた男ですから、そう感じるのは当然だと思います。

二宮: 江夏さんが不満気なのはベンチで気づきましたか?
古葉: 衣笠がパッと江夏のところに行って話をしているから、「ブルペンに2人行かせたのが気に入らん」とか言っているんだろうなとは察しましたよ。あの場面で、それくらいしか話すことはないですから。衣笠からはシリーズが終わった後、何かのパーティで一緒になって、その時のいきさつを話してくれましたよ。

二宮: 江夏さんとこの件で話をしたのは?
古葉: あくる年になってからですよ。オフのパーティやイベントで一緒になっているのに向こうからは何も言ってこない。かと言って私も監督として当然のことをやったまで。もう日本一になったんですから、その話は終わったことだと思っていました。
 ところが、翌年のリーグ戦がスタートする1週間くらい前でしょうか。開幕1軍メンバーも決まって市民球場で最終調整をしていると、江夏から「去年のことがまだ頭の中でひっかかっている」と言ってきた。「そうか、じゃあ練習終わったら、監督室で話をしよう」と。江夏の言い分はこうでした。「なぜ自分が投げているのに、2人もブルペンに行かせたのが不思議でしょうがない」。私はこう答えました。「オレだって、あのケースで代えるつもりは100%なかった。あんな場面で行かせて、誰が抑えられる? 抑えられるわけないよな? ただ延長戦に入った場合、シーズン中から3イニングを限度にやってきたんだ。同点の場合は誰かを用意しておかないといけない。だから2人を行かせたんだ」と。そしたら、「あぁ、わかった、わかった。今年もやるけん」と帰っていきましたね。「これからも何かあったら話をすればいい。今年も日本一になれるように頑張ろう」。最後はそんな約束を江夏としましたよ。

二宮: その約束通り、古葉さん率いるカープは日本一連覇を果たし、84年にもシリーズを制しました。それでも、やはり一番印象に残っているのは79年のシリーズだと?
古葉: この日本一がなかったら、今の私はありません。ここで勝ったことで、その後の2度の日本一につながった。おそらく、あの年、優勝できなかったら、私は監督を辞めていたでしょう。
 79年は振り返ってみれば、いろいろなことがあった1年です。連続フルイニング出場の記録更新がかかっていた衣笠が絶不調で、オーナーからは「バカタレ。何でそこまで個人の記録にこだわるんだ!」と随分、叱られました。「オーナー、今年1年は“任せる”と言ったでしょう。私も考えているんですから、現場のことには口を出さないでください」と反論して、何度もケンカしました。
 最終的には衣笠のスタメン落ちを決断したわけですが、それから10日すると復調してきた。夏場以降の優勝争いでは、しっかりとチームに貢献してくれました。江夏にしても、彼が来てくれたおかげでリーグ優勝、日本一になったんです。私自身もクビにならなかったのですから、本当に感謝しています。ただ、ひとつだけ彼らに申し訳ないと思っていることがあるんですよ……。

二宮: というのは?
古葉: 79年、80年と連続日本一になったのに広島の街でパレードをしなかったんです。84年の時もそうでした。私はオーナーにお願いしたんですけどね。「75年の初優勝の時にはパレードをやって、ファンにもあんなに喜んでもらった。ぜひパレードをしましょう」と。でも、首をタテには振ってくれませんでした。お金の問題もあったのかなとも考えましたけど、優勝した分、儲かったはずですけどね……。
(写真:今でも試合中はベンチの隅が定位置。「そこならピッチャーの球筋と内外野の動きがきちっと見える」)

二宮: 衣笠さんや山本浩二さん、江夏さんと選手の年俸が高騰した影響があったのでしょうか?
古葉: でも、監督の給料は安かったですよ(苦笑)。コーチの給料も他球団の2分の1から3分の1くらい。だからオーナーには「優勝したら300万円、2位だったら200万円、3位だったら100万円、ボーナスをください」と契約書に加えてもらったんです。そうでもしないとコーチ陣に申し訳ない。それで日本一になったものですから、お金がかかったんでしょうか。私が監督を辞めると、すぐにボーナス制度はなくなってしまったそうですよ(笑)。

(現在発売中の『文藝春秋』6月号では「江夏の21球は14球のはずだった」と題して二宮清純が9回裏の攻防を再検証。古葉監督をはじめ当事者の証言をもとに記事を執筆しています。こちらもあわせてご覧ください)