素質が一気に開花したのはプロ入り8年目、08年のシーズンである。
 実はこのシーズンで納得のいく結果が残せなかった場合、内川はユニフォームを脱ぐ覚悟を決めていた。04年には17本塁打を放つなど、それなりの活躍を演じていた内川だが守備面の不安もあり、レギュラー定着には至らなかった。
(写真:「バッターボックスは自分を一番表現できる場所」と語る)
 07年のオフ、大分の実家に帰り、母の和美に告げた。
「オレ、来年ダメなら野球やめようと思う」
「あっ、そう。いいんじゃないの。好きで始めた野球を、そんなに嫌いになってまで続ける必要はないんじゃない。やること全部やってダメだったら、もう大分に帰ってきなさいよ」

 JALの国際線で客室乗務員として働いていた母の一言は予期しないものだった。
「考えが甘かった。やることを全部やったかと言われれば、そうでもない。本音の部分で僕は“もうちょっと頑張りなさい”という励ましの言葉を期待していた。ところが“大分に帰ってきなさい”ですから……」

 迎えた08年、内川は運命的な出会いを果たす。ヤクルトの打撃コーチだった杉村繁が横浜の1、2軍を巡回する育成総合コーチに就任したのだ。杉村はヤクルトのベンチから見ていた内川の印象を率直に話した。
「オマエのフォームは脆い」
 この一言に内川はショックを受けた。守備においては送球などで悩んだこともあったが、ことバッティングにおいては人後に落ちないとの強烈な自負があった。
 いったい、このオッさんは何を言わんとしているのか……。

 なおも杉村は続けた。
「ちょっと(ボールをとらえる)ポイントが前過ぎるな。泳いで打っている間はピッチャーは投げやすい。もっとポイントを後ろにして、ボールを呼び込んで打つようにしようや」

 杉村は高知高時代、“中西太2世”と言われたほどの強打者で76年にドラフト1位でヤクルトに入団した。しかし、プロでは伸び悩み、12年間でわずか4本塁打に終わった。
 杉村に再び注目が集まったのはコーチになってからだ。ヤクルト時代の05年には青木宣親を指導し、初の首位打者に導いた。苦労人だけに、伸び悩んでいる選手に寄り添うようなキメ細やかな指導で声価をあげていた。

「杉村さんから教わるまで前のポイントでボールをとらえられ、泳いでも打てることが長所だと思っていた。この打ち方でカーンとレフトスタンドに飛び込むホームランも年に何回かはありましたが、確率的にはそう多くはない。この変化球全盛の時代を生き抜くには、詰まってでもヒットにできる技術を身につけるしかない。とにかくボールを引きつけるだけ引きつけ、コンパクトに振ろうと。杉村さんと出会って、それを意識するようになりました」

 08年4月9日、横浜スタジアムでの巨人戦。このシーズン初めて内川はスタメンに起用された。
 巨人のピッチャーはサウスポーの内海哲也。前年には14勝をあげていた。新たな打法を試すには、絶好の相手だ。
「内海はチェンジアップを低目に集めて勝負するピッチャー。その得意のチェンジアップが高めに浮いたんです。それを泳がずにしっかりと振って左中間に持っていくことができた。ライナー性の打球はフェンスの一番上へ。この時にコツを掴んだような気がしました。右足にしっかりと体重を乗せ、それをボールにガンとぶつける。この当たりは大きな自信になりました」
 この年、内川は3割7分8厘で首位打者に輝く。なお、この数字はプロ野球史上における右打者の最高打率でもあった。

 通算210勝をあげている中日の山本昌は「ライナーを打たせたら日本で一番うまい」と舌を巻く。
「アイツはヒットゾーンが広いから、どこに打ってもヒットになる。ライナーだけじゃなくゴロもまた厄介。打ち取ったと思った打球が野手の間を抜けていく。要するに打球の球足が速いんです。トップスピンのかかったゴロを打てるのは僕の知る限りではアイツと(ヤクルトの)青木だけですよ」

 球足の速い打球――。これには理由がある。内川はバットがボールに当たる瞬間、前後5mmのスイングスピードが最速になるよう意識しているというのだ(写真)
 先述したブンという風を瞬時に切り裂くようなスイング音は、この位置で鳴らなければ意味がない。全身の力がこの一点に凝縮され、ボールを弾く。そこに山本昌いうところの「トップスピン」が生まれるのだ。ヒットが量産できる秘密がここにも隠されている。

 打撃開眼の一打が先述した内海からのヒットなら内川聖一の名を一躍全国区にし、彼をスターダムに押し上げたのはWBCの初打席で放った目の覚めるようなレフト線二塁打である。
 09年3月7日、東京ドームの第1ラウンド。米国での第2ラウンド進出をかけ、日本は韓国と対戦した。韓国の先発は日本キラーのサウスポー金広鉉。北京五輪では「視界から消える」といわれた彼のスライダーに手玉にとられ、日本はメダルを逃した。

 この憎きサウスポー対策として、原辰徳監督がスタメンに起用したのが内川だった。
 初回、1点を先制し、なお2死一、二塁。ここで打席に立った内川は2−2のカウントから金のインローのスライダーをレフト線に運んだ。二人のランナーが相次いで生還、宿敵は2回途中でマウンドを降りた。

 勝負のポイントは「その前のボールだった」と内川は振り返る。
「1ボール2ストライクのカウントからヒザ元にスライダーがきた。あれを振っていたら僕の負け。逆にいえば、あれを見逃した時点で“僕の勝ち”。あの球をボールと判定された以上、次はもう少し高めに放らなければならない。それを待っていました」
 決勝の韓国戦でも内川は3安打を放ち、イチローのタイムリーで世界一を決めるホームを踏んだ。下戸の内川は全身でシャンパンを味わった。野球人生で初めて経験した「頂上の味」だった。

 初めて出場した国際大会で活躍し、移籍したパ・リーグでも全く戸惑いを感じさせないのは、彼の確固たる打撃理論に依る。
「審判の決めるストライクゾーンと僕のストライクゾーンは一緒ではない」
 こんなことが言えるのはイチローを除けば内川くらいのものだ。

「要は野球というスポーツをつくった人が勝手に“ここがストライク”と決め、審判がそれに従っているだけでしょう。僕がそれに従うかどうかは別問題。
 よく“ボール球を打ってもヒットにならない”という人もいるけど、それはウソ。“そこは自分のストライクゾーンだ”と思えるなら打っていいんです。
 ただ、ボール球に手を出した以上は、きちんと自分の言葉で説明できなければいけません。こう思ったから、このようにして打とうと思いました、と自分の言葉でね」

 横浜時代、杉村とともに影響を受けたのが巨人から移籍してきた仁志敏久である。同じ内野手ということもり、仁志はよく内川を食事に誘った。遠征先の名古屋のすし屋。巨人で緻密な野球を実践していた仁志の目に横浜の野球は大雑把に映った。
「皆、その日のプレーに一喜一憂し過ぎている。もっと考えてプレーしないとダメだよ」
 やんわりと説教すると内川がおもむろに口を開いた。
「仁志さん、考えるってどういうことですか?」
 仁志は噛んで含めるように言った。
「プレーひとつひとつの成功した理由、失敗した理由の全てを説明できないと、プレーしたことにならないんだよ」

 昨年、ユニフォームを脱いだ仁志は、今の内川をどう見ているのか。
「フォームにブレがない。足を上げて戻しているだけ。無駄な動きが少ないから、自分のスイートスポットの中でしっかりスイングできる。だからボールが速いとか曲がったとかも関係ない。しかもソフトバンクは優勝を狙えるチームだから気持ちに張りがある。ヤフードームはヒットゾーンも広い。今季は相当やると思いますよ」

 新天地での背番号は24。かつて福岡を本拠地とした西鉄のエース、稲尾和久(故人)の背中を思い出す。そういえば鉄腕・稲尾も大分の出身だ。
「神様、仏様、稲尾様」から「内川様」へ。九州人の熱視線の中、安打製造機は今日も無人の空間に白球を運び続ける。

(おわり)
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<この原稿は2011年6月4日号『週刊現代』に掲載された内容です>