簑田浩二といえば、走攻守3拍子揃った外野手だった。阪急では83年に史上4人目のトリプルスリーを達成(打率.312、32本塁打、35盗塁)。8年連続でゴールデングラブ賞を獲得するなど、阪急黄金期を支えた。88年に巨人移籍後は、バイプレーヤーとして89年の日本一にも貢献している。セ・パ両リーグの常勝チームでプレーした簑田に、二宮清純が現役時代の思い出を聞いた。その一部を紹介する。
(写真:「日本シリーズはペナントレースの付録のつもりで戦っていた」と振り返る)
二宮: 簑田さんといえば、まず思い出すのが1977年の巨人との日本シリーズでの好走塁です。第4戦、1点ビハインドの最終回に代走で出場し、二盗でチャンスを広げると、高井保弘さんのレフト前ヒットで、うまくキャッチャーのタッチをかいくぐって同点のホームイン。その後、投手の山田久志さんのタイムリーなどで一気に逆転し、この試合はもちろんシリーズの流れも完全に引き寄せました。
簑田: 僕もあの時のことは良く覚えています。1−2で負けていて9回表2アウトランナーなし。ここで代打の藤井(栄治)さんが四球を選び、僕が代走で起用された。相手のバッテリーは浅野(啓司)−吉田(孝司)。上田(利治)監督からは「いつでも走れ!」と指示を出されました。そんなこと言われて簡単に走れる場面ではないのだけど(苦笑)、2球目でなんとか盗塁を成功させることができました。

二宮: 打席には代打の切り札・高井さん。一打同点の場面になりました。
簑田: それで2ボール1ストライクか、3ボール1ストライクで高井さんがヒット。それで僕が還って同点。ベンチはハチの巣をつついたような騒ぎで迎えてくれましたよ。ところがそんな中、上田さんだけは表情が緩まない。むしろ「まだ遅い!」と叱られてしまいました。

二宮:「遅い」というのは?
簑田: 2塁からのスタートが遅いというわけです。2アウトで打球が飛んだら、とにかく走る場面で、しかもバッティングカウント。セカンドランナーなら、ピッチャーの投げるコースは見えますから、バットを振り始めた段階で当たるかどうかは判断できる。その時点でスタートしないと遅い。それが監督の指摘でした。当たってから走り始めるのではなく、当たる前に走り出す。それだけでもホームベースに到達した時には2メートルの差になるんだぞと。

二宮: つまり、あの場面ではクロスプレーにはならず、悠々セーフになっていたはずだと?
簑田: タイミング的には完全にアウトでしたからね。当時の後楽園球場は狭かった上に、巨人は守備固めでレフトを張本(勲)さんから二宮(至)に代えていた。走っていて「こりゃ際どいな」というのは感じていました。捕手の動きでボールがバックホームされているのも分かりましたからね。
 私にとって幸いだったのは、サードの高田(繁)さんが中継でカットしたこと。二宮の返球はダイレクトでもいいくらい素晴らしいボールでした。おそらくキャッチャーからは「ノー(カット)、ノー」と指示が出たはずです。ところが球場の歓声にかき消されて、高田さんも内野が本職ではなかったのでカットしてしまった。その分だけ、バックホームが遅れたんです。

二宮: あの同点劇は、厳しい見方をすれば巨人に記録に残らないミスがあったわけですね。
簑田: しかも後で映像を見ると、高田さんは正対してレフトからのボールを受けて、振り向きざまに送球しているものだから、その勢いでやや一塁側に返球が反れていた。それでキャッチャーのブロックが外れて、うまくスライディングして入れたんですね。

二宮: なるほど。大一番で明暗を分けるのはわずかな差です。長嶋巨人が結局、上田阪急に勝てなかった一因は、こういった細かいプレーに現われていたんですね。
簑田: その後、巨人でもプレーしましたが、やはり僕は上田さんに鍛えられたというか、野球を奥深く教えてもらった思いは強いですね。状況によってプレーの選択肢が変わること、ワンプレーの大切さを学びましたね。僕は高校も無名校(広島県立大竹高)で、社会人(三菱重工三原)時代もプロに行こうなんて思ったことがなかったので、野球に対して深く掘り下げたことなんてなかった。それが上田さんによって、野球の醍醐味を知ることができて感謝しています。

<現在発売中の『文藝春秋』2011年8月号では「プロ野球伝説の検証」と題し、簑田さんらの証言も交えて、78年日本シリーズ第7戦の1時間19分にも及んだ猛抗議の真相に迫っています。こちらも併せて、ご覧ください>