元Jリーガーにして車椅子バスケットボール元日本代表の京谷和幸が、車椅子バスケ日本代表ヘッドコーチの及川晋平から「手伝って欲しい」と頼まれたのは今年5月のことだ。

 

 京谷は城西国際大学サッカー部の外部コーチも務めている。同大監督の小山哲司に相談すると「両方やれ」。そこから2足のわらじを履く生活が始まった。

 

 及川が京谷に依頼したのはディフェンスの強化である。00年シドニー、04年アテネ、08年北京、12年ロンドンと4大会連続でパラリンピックに出場した京谷はディフェンスに関する豊富な知識と経験があった。

 

 周知のように車椅子バスケは、障がいのレベルに応じて、最も重い1.0から4.5までの持ち点が定められている。試合中、コート上の持ち点の合計が14.0を超えてはならない。

 

 京谷の現役時代の持ち点は1.0。規定はこうだ。<腹筋・背筋の機能が無く座位バランスがとれない為、背もたれから離れたプレイはできません>(日本車椅子バスケットボール連盟の公式サイトより)

 

 京谷が北海道の強豪・室蘭大谷高から古河電工入りしたのは1990年4月のことだ。93年にはJリーグが開幕。同年10月のナビスコカップで公式戦初出場を果たした。

 

 選手として、さぁこれからという時に交通事故に遭った。その日は結婚式の衣装合わせの日だった。脊髄を損傷し、下半身不随に。最初は現実を受け入れることができなかった。

 

「予定どおり入籍して」。そう切り出したのは京谷ではなく婚約者だった。リハビリ期間中、車椅子バスケに誘われた。気乗りのしない京谷を「私が運転してあげるから」と連れ出したのも彼女だった。

 

 リオパラリンピック出場を決めた韓国戦、京谷はベンチから指示を送り続けた。5人のメンバーをほぼ固定して戦う韓国を、「後半バテる」と踏んでいた。読みどおりの展開となった。高い位置から積極的にプレッシャーをかけファウルを誘った。障がいの重いローポインターの献身的な守りがハイポインターの活躍を引き出した。

 

「今では事故に遭ったことを感謝している」。2年前、京谷はポツリとそう言った。彼にしかできない役割と必要とされる居場所がある。ピッチとコートを行き来するエネルギッシュな日々が続く。

 

<この原稿は15年10月21日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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