50メートルを過ぎたあたりでベン・ジョンソンがギアを入れた瞬間、3つ隣のレーンのカール・ルイスは止まっているように映った。88年ソウル五輪、陸上男子100メートル決勝。電光掲示板には世界記録を示す「9.79」という衝撃の数字が光っていた。

 

 もっと驚いたのは、直後のドーピング検査で、ジョンソンの尿から禁止薬物のアナボリック・ステロイドのスタノゾロールが検出されたことである。レースから3日後、金メダルは剥奪され、世界記録も取り消された。

 

 これによりジョンソンは全てを失った。名誉ばかりでなく、金メダルの報酬も。CNNは計13社、200万ドル(当時のレートで各2.7億円)に及ぶCM契約を結び損ねたと報じた。

 

 ジョンソンのドーピングを“一攫千金型”と名付けるなら、連日のようにメディアをにぎわしているロシアの陸上選手のケースは“国威発揚型”である。

 

「誰かがアンチ・ドーピングの規則に違反した責任を取るとすれば、それは個人だ」とウラジーミル・プーチン大統領は開き直ったが、陽性が疑われる検体を破棄したり、非公認の検査機関を設けたりしていた事実を、どう説明するのか。

 

 かつて旧共産国は西側諸国への対抗意識からスポーツを国威発揚のために利用していた。いわば“国策ドーピング”である。

 

 その効果は絶大だった。東ドイツはソウル五輪で金銀銅合わせてソ連に次ぐ102個のメダルを獲得した。人口約1700万人の国でこの個数は常識的に考えてありえない。

 

 この頃、よく耳にした話がある。ソ連や東欧の女子選手は夜になると、シェービングクリームを用いてこっそりヒゲをそっているというのだ。ドーピングの影響によるものであることは容易に察しがついた。

 

 ドーピングは競技の公平性、公正性を損なうだけでなく人体に深刻なダメージをもたらせる。IOCがアンチ・ドーピングに力を入れているのはもっともなことだ。

 

 しかし、根絶となると悲観的にならざるをえない。残念ながらスポーツを政治利用する国は後を絶たず、一獲千金主義の背景にある五輪の商業化路線はとどまるところを知らない。禁止薬物をめぐる捕り物劇がイタチごっこと見なされる所以である。

 

<この原稿は15年11月18日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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