正直なところ、カンボジア戦のお寒い試合内容のことなどどうでもよくなってしまうほど、衝撃を受けている。
サッカーだけは大丈夫だと思っていたのに――。
五輪はテロに見舞われたことがある。けれども、言語や民族、宗教を越えて世界のあらゆる地域で愛されているサッカーだけは、テロの対象となることはない――若いころ、専門誌でそんな記事を読んだことがある。
その記事には、確かこんなことも書かれていた。サッカーを襲えば、世界中を敵に回すだけでなく、シンパを失うことにもなる。だから、ミュンヘンを襲った中東のテロリストも、W杯を襲うことはないのだ、と。
ずっと、信じてきた。
大会の規模が巨大化するにつれ、W杯のセキュリティーは厳重になった。だが、それはテロ対策を念頭においた五輪でのそれとは違い、対象はあくまでもフーリガンだったような気がする。ことサッカーの取材に関する限り、治安の悪さに肝を冷やした経験はあっても、テロの恐怖におびえたことは、ただの一度も、なかった。
それが崩れた。
カンボジアでの冴えない試合から数時間後、本来であればハノーバーで行われるはずだったドイツ対オランダの親善試合は、突如として中止された。警察当局がテロの情報をつかみ、実際にスタジアム内で不審なスーツケースが発見されたことが直接の原因となった。オランダの選手たちは、会場に向かうバスの中で中止の報に接し、そこから帰国の途についたという。
『ドイツにとっての悲しい一日』
キッカー誌のウェブ版にはそんな見出しがあったが、これは、「悲しい」などという生易しいものでも、ドイツにとってだけの問題でもない。
15年11月17日。この日を境に、サッカーは聖なる高みから、血なまぐさい地べたへと引きずり降ろされた。
世界のサッカー界が英知を注いだ結果として、スタジアムの治安は20世紀後半とは比べ物にならないほど安全になってきている。かつて黒人選手がピッチに立つだけで凄まじいブーイングが飛び交っていた英国の観客席には、当たり前のように有色人種や女性のファンがいるようになった。
だが、これまでは爆竹や花火にしか思えなかった大きな音に、多くのサッカーファンは恐怖を覚えるようになるかもしれない。どれほどねだられようとも、子供をスタジアムに連れて行くことを躊躇する親が出てくるかもしれない。
サッカーが、殺されようとしている。
来年、サッカー界には欧州選手権というビッグイベントが控えている。
開催国は、フランスである。
<この原稿は15年11月19日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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