どれほど仲のいい、あるいは付き合いの長い友人であっても、好きな映画や音楽が完全に一致することなどありえない。なので、代表監督が誰を選ぼうが、その選考に異をはさもうとは、基本的に思わない。あいつは俺の好きなジューダス・プリーストが好きじゃない。だからダメだ、とやってしまうようなものだからだ。

 

 ただ、長友が代表に復帰したのは驚いた。

 

 いや、理由はわからないでもない。ホームでの試合はともかく、アウェーでの平壌戦は恐ろしく特殊な環境での試合となる。経験があって、ムードメーカーにもなってくれるベテランの力は、確かにほしい。

 

 一方で、想像を絶するような厳しい環境だからこそ、若い選手に経験を積ませるべきでは、との思いも捨てきれない。さらに、FC東京でのプレーを評価したというのであれば、神戸で桁外れの結果を残し続けている大迫に声がかからないのは解せない。ベテランだから、との理由は、もう使えなくなってしまった。

 

 ともあれ、予想外の長友抜擢によって、本来であればもっと議論の遡上にあがっていてもおかしくない話題は吹っ飛んでしまった。なぜ守田を選んだのか。そして、なぜ伊東を外したのか。

 

 守田に関しては、水面下で何らかの接触があったはずだと信じたい。先週にも書いたが、何もせず、うやむやにするのが一番まずい。膿は、しこりは、早いうちに処理しておいた方がいい。

 

 一方で、そうだろうな、仕方がないなと思うのが、伊東のメンバー落ちである。

 

 個人的には、白か黒か確定していない段階でメンバーから外す必要はない、とも思う。八百長疑惑をかけられたアギーレ監督が解任されたときも、そう思った。

 

 ただ、協会の立場からすれば、万が一、万万万が一にでも黒だった場合のことも考えておく必要がある。性暴力に対する世間の目は、以前とは比較にならないぐらい厳しい。日本サッカー協会がこの手の問題を黙認する団体だと思われてしまえば、一気にライト層やスポンサーが離れる可能性もある。

 

 米国で性暴力“疑惑”をかけられた元ベイスターズのバウアーは、今年もメジャー復帰がかなわなかった。本人が頑なに“疑惑”を否定し、すでに訴えた女性との和解が成立しているにもかかわらず、獲得に動くメジャー球団は現れなかった。

 

 アギーレにしても、かけられた八百長の嫌疑には無罪の判決が下されている。万が一を考えての日本サッカー協会の決定は、結果的に完全な杞憂だった、と取ることもできる。

 

 では、協会は無罪を信じて突っ走るべきだったのか。無責任なわたしは「そうすべきだ」と感じ、責任ある人たちは「そうすべきではなかった」と考えた。間違っていたのは協会か? 違う。これは純粋に、立場の違いである。

 

 とはいえ、アギーレと伊東を同列に論じることはできない。

 

 アギーレと日本サッカー協会の関係は、一言で言ってしまえば「契約」だった。もちろん、そこに感情が介入してくることは多々あれど、基本的には紙切れ1枚の関係である。

 

 だが、伊東は日本サッカー協会と契約しているわけではない。むしろ、貴重な時間を日本のために割いてくれる存在である。アギーレの疑惑が晴れた際、特に何の動きも見せなかった日本サッカー協会だが、伊東の場合は、まったく違った対応が必要となってくる。

 

<この原稿は24年3月21日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>


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