話を進めよう。野球小僧であるからには甲子園を目指すのは当然の成り行きだ。田中が進んだのは地元の強豪ではなく、四国・香川の尽誠学園高だった。いわゆる野球留学である。
「その頃、寮生活に憧れていたんです。寮に入って、朝から晩まで野球漬けの生活を送りたいって……」
 尽誠でも田中には、その後の野球人生に大きな影響を与える出会いがあった。コーチの椎江博(現大阪学院大高監督)である。
(写真:セ・リーグ首位のチームを支える名脇役。バントには絶対の自信をもつ)
 田中の堅実な守備の基礎は高校時代にかたちづくられた。
「尽誠は守備を重視するチーム。彼にはよくノックをしました。その頃から派手さはないけど堅実でした。
 ただショートには向いていなかった。1年の秋に一度、セカンドからショートにコンバートしたんですが、秋季大会でタイムリーエラーを犯し、あわや逆転負けをくらいそうになった。監督に“ショートは怖い。向いていないと思います”と話をして、それからはセカンド一本です」

 甲子園には1年と2年の夏、2度出場した。3年ではキャプテンを務めたが、残念ながら甲子園には出られなかった。
 椎江には、こんな思い出がある。
「手のかからない子でしたが、1回だけこっぴどく叱りました。2月の寒い日でした。ノックに対して動きが悪く、ダラダラやっていた。“真剣にやっているのか!?”と怒ると、“はーい!”といい加減な返事をした。それから説教ですよ。
 しかし、この態度には彼なりの計算があったようなんです。この日はチーム全体の動きが悪く、田中はその雰囲気に耐えられなかった。それであえて自らが叱られ役になることでチームを引き締めたかったんだと。私も後になって知りました」

 卒業後は名門・早大へ。当時の監督・野村徹に見出され、たちまちレギュラーに定着。1年の春から東京六大学リーグ戦全試合に出場した。
 実は高2の時、田中は早大の練習に参加していた。野村が目を見張ったのは、その堅実な守備だった。
「大学生に交じって一緒にキャッチボールやノックをやったんですが、上背はないけど柔軟性があり、とにかく守備がしっかりしている。こちらも意地悪な打球をいろいろと打ったんですが、スタートがよく、どんなバウンドにもスッと合わせる。あまりにもいい守備をしているので、現役の大学生に“この高校生を見ろ。基本ができているぞ”と言って見学させたほどです」

 4年の秋、順風満帆だった選手生活に初めて危機が訪れる。リーグ戦初戦の法大戦で左手に死球を受けて骨折。それが原因でフルイニング出場が途切れてしまったのだ。
 振り返って野村は語る。
「本人に“どうだ?”と聞くと“大丈夫です”と。“無理するな”と言っても、“どうしても出させてほしい”と言って聞かないんです。前年まで4連覇したチームをキャプテンとして受け継いだものだから、なんとか優勝したいという気持ちが強かったのでしょう。
 その後、プロに行って成功した浩康、青木、鳥谷(敬)に共通して言えるのはケガに対する強さです。皆、医師の診断よりも早く回復して試合に出ていましたから」
 当時、プロ野球のドラフトには大学生、社会人に限って自由獲得枠があり、田中はヤクルトから“内定”を得ていた。
「骨折して悪くなったら、どうなるか分からない」
 一般企業の就活にたとえていえば、“内定取り消し”だ。約束が反故にされることはなかったが、ケガが長引けば別の進路を迫られていたところだった。

 田中にはバッティングの師匠もいる。現役時代は「怪童」の異名をとった中西太だ。指導者になってからは若松勉や石井浩郎、岩村明憲らを育て上げた名伯楽でもある。
 中西の自宅は渋谷区にある。時間ができるとフラッと神宮球場に顔を出し、若手にアドバイスする。78歳になった今でも中西は、そんな日々を送っている。
「バッティングで一番大切なのは下半身。次にタイミングをしっかり合わせること。そしてレベルに振り切る。この3つを中西さんには徹底して教わりました」
 怪童・中西といえば、田中にとっては“伝説の人物”である。野武士軍団・西鉄の主砲として日本シリーズ3連覇に貢献した。平和台球場で放った“160メートルの大ホームラン”は今も語り草である。引退後はヤクルトでも延べ5年間、コーチを務めた。

 孫のような年齢の田中に、中西はどんな技術を伝えたのか。
「下半身がしっかりし、タイミングがきちんと取れれば、バットは自然にレベルに振れる。田中の場合、ヘッドが入る悪いクセがあるけど、下半身がブレるからそうなる。よく見れば分かるんだけど、彼の悪い時は軸足が逃げとるでしょう? 要するに右足の親指で踏ん張りきれていないからバランスが崩れるんだな。
 足元さえしっかり修正できれば、田中はもっと良くなる。ヤクルトには青木という先輩がおるけど、しっかり振って(ボールを)とらえる技術は田中のほうが上やと思う。監督の小川君にしても、打撃コーチの佐藤(真一)君にしても、僕のやり方は知っているはず。それは確実に田中にも受け継がれていくはずだよ」
 低反発の統一球が導入された今季、ホームラン数は前年より約4割も減少している。それだけにバッティングの基本とは何か。それを希求する姿は、いよいよ尊い。
 田中は語る。
「バッティングは複雑なものですが、中西さんから教わったことで迷った時にシンプルに戻れる場所ができました。試合もよく観ていて、調子が悪いとフラッと球場に来てくれる。僕にとっては非常にありがたい方です」
 
 2番・セカンド――。
 それが田中の現在の働き場所だ。V9巨人の土井正三しかり、西武黄金期の辻発彦しかり、そこはバイプレーヤーの定位置でもある。
 2番は打線の中にあって、つなぎの役割も担う。バントにバスター、エンドランと監督の求めに応じて、何でもこなさなければならない。和食に洋食、中華まである食堂と一緒だ。「これは得意ですが、これは苦手です」などと言った日には、誰も寄り付かなくなってしまう。
 ヤクルトの1番は出塁率の高い青木。スコアリングポジションに進めるためにも2番の仕事は重要だ。送りバントは百発百中の確実性が求められる。
 田中は07年(51個)、09年(38個)とセ・リーグの最多犠打を記録している。今季も47犠打(9月7日現在)はリーグトップだ。

 やさしそうに見えて難しいのが送りバント。どこで技術を学んだのか。
「川相(昌弘)さんが教えているところを見て……」
 川相といえば、誰もが知る「バント職人」だ。通算533犠打は“世界記録”である。
 現在は巨人2軍監督の川相だが、前職は中日の2軍監督、内野守備走塁コーチ。ヤクルトでの指導経験はないはずだが……。
 苦笑を浮かべて田中は続ける。
「川相さんが中日のコーチ時代、よく試合前にバント練習をさせていました。僕はそれを盗み見しながら、かたちを真似していた。人に教えるところを見るのが一番手っ取り早いと思ったものですから……」

 プロの世界には「教わるより盗め」という格言がある。先輩の技術をいかにして、目で盗むか。すなわちカンニングこそは最大の学習手段なのである。
 三冠王3度の落合博満(現中日監督)だって、まずは先輩の模倣から始めている。落合の“師匠”は土肥健二という地味な選手だった。
<「はあ、うまいこと打つな。あれをまねできたら……。ヨーシ、オレもまねしてみよう」と思ったのがそもそものはじまりだ。
 勝手に先生と決めて、あの人が打ちはじめると必死で見た。
 ひと言で言うと、ハンドリング(腕の使い方)のうまさ。肩から下の腕の振りはすばらしいものだった>
(落合博満著『なんと言われようとオレ流さ』講談社)
 味方に教えているはずの技術が、よもや敵方に盗まれていたとは……。この事実を知れば、きっと川相も苦笑を返すに違いない。
 しかし、このような油断もスキもない間者たちの集まりこそがプロ野球であり、また、それは競争社会を生き抜く知恵でもある。
「上達するためのヒントは味方はもちろん相手チームの中にもあるんです。目で盗み、実際に試してみて“あっ、これはいいな”と思ったものは、どんどん取り入れていく。この貪欲さだけでは失いたくないですね」

 田中は今や球界を代表するバイプレーヤーのひとりだが、まだオールスターゲームへの出場は1度もない。
 後輩を思いやって古田は次のように話す。
「1度でもオールスターに出ると箔がつくし、なによりトッププレーヤーと一緒に野球をやることで“これからもそれなりの成績を残さなきゃいけない”という自覚が生まれてくる。ゴルフだって、自分よりうまい人とやらないとレベルが上がっていかないでしょう……」
 金魚より目立つどじょうがいても悪くはあるまい。

(おわり)

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<この原稿は2011年9月24日・10月1日号『週刊現代』に掲載された内容です>