昨季本塁打王のバットが、ようやく火を吹き始めた。
 3年ぶりのクライマックスシリーズ進出へ9月に快進撃をみせたオリックス。チームの大きな原動力となっているのが4番のT−岡田だ。今季は序盤から主砲としての役割を果たせず悩んだ。8月には2軍落ちも経験した。だが、1軍復帰後は調子を上げ、9月23日の北海道日本ハム戦ではダルビッシュ有からソロアーチを含む3安打。対戦するピッチャーにとっては怖い存在になっている。苦しみを乗り越え、また一回り大きくなった23歳を二宮清純が取材した。
(写真:「バッティング自体に完成はない。常に進化していきたい」と語る)
 岡田貴弘という立派な名前を持ちながら、その男はT−岡田と呼ばれている。
 なぜT−岡田なのか。
 ひとつは所属するオリックス・バファローズの監督が岡田彰布だからである。しかし、監督の岡田はA−岡田とは呼ばれない。
 ふたつ目の理由は、その男が時折、ケタはずれの打球を放つからである。まさに肉食恐竜のT−レックス級。Tはティラノサウルスの略だ。

 昨シーズン、33ホームランを放って、プロ入り5年目でホームラン王を獲得。大ブレークしたT−岡田が打撃不振を理由に二軍落ちしたのは8月17日のことだ。
 前日のヤフードームでの福岡ソフトバンク戦で好機に3三振。指揮官から「あれじゃ使えんやろ。ワンバンばっかり振って」と4番失格の烙印を押された。

 状態はどん底だった。振り返って本人が語る。
「あの頃は完全におかしかった。タイミングがまるで合ってなかった。狂ったフォームを下(二軍)で調整できたのは大きかったと思います」
 T−岡田の打法は独特だ。ノーステップ打法といってほとんど足を上げずに打つ。他に類を見ない打法だけに修正するのに時間がかかる。

 復活のきっかけを掴んだのは8月24日、鳴尾浜での阪神戦(ウエスタン・リーグ)だ。3打席目、ピッチャーは台湾人右腕の鄭凱文。2ボール1ストライクからの4球目、真っすぐをフルスイングすると打球はスコアボードを直撃した。T−レックスばりのケタ違いの打球だった。
 しかし本人が手応えを掴んだのは、この大ホームランではなく、ひとつ前のファウルだったというからバッティングのメカニズムは複雑だ。

「2ボールからのチェンジアップを、自分のかたちでフルスイングすることができた。結果はバックネット方向へのファウルだったんですが、狙っていたボールではないのに“溜まった状態”でバットを振ることができた。これで、いけるぞという気になりました」
 掴んだと思えば、スルリと逃げていく。逃げたと思えば、またスルッと手に戻ってくる。この繰り返し。バッティングとは、さながらウナギのようなものだ。

 この6日後、屈辱のヤフードームに日焼けしたT−岡田の姿があった。
 第1打席、ソフトバンクの先発D・J・ホールトンのスライダーを右中間スタンドに運んだ。第4打席ではサウスポー神内靖のスライダーをライトスタンドに放り込んだ。
 頼れる4番が戻ってきた。9月22日現在、オリックスは60勝58敗6分けでパ・リーグ3位。クライマックスシリーズ進出に向け、熾烈な戦いを続けている。

 T−岡田には「消える打球」伝説がある。最初に断っておくが、これは都市伝説ではない。実話である。
 伝説の証人はオリックス元スカウト部長の堀井和人。
「最初に彼を見たのは高校2年の時かな。まだ当時は注目度も低く、試合を見に来ていたのは2球団ぐらいでした。
 初めて見た試合で、彼はいきなり左中間にホームランを叩き込んだ。最初はショートライナーかなと思ったんですが、打球が速過ぎて、どこへ飛んだのかわからんかった。つまり消えたんです。“おい、どこへ飛んだんや?”と打球を探していたら、もう外野のフェンスを越えていた。
 スカウトを30年やってきて、こんなことは初めて。こりゃ、とんでもないバッターやと思いました」

 堀井は近鉄のスカウト時代、中村紀洋(現横浜)を発掘し、獲得したことで知られる。ノリと比べて、どうだったか。
「僕はバッターを見るにあたり、ふたつチェックポイントがあります。ひとつは体の軸がしっかりしているか、ふたつ目はスイングが速く、キレがあるか。
 岡田の場合、体が大きい割にバットが速く振れ、軸がブレない。しかもバッティング自体が柔らかく、逆方向にも打てるんですね。これは中村にも共通して言えること。
 しかしパワーに関しては岡田の方が上でしょう。僕は南海時代の同期に門田博光がおり、法大時代の1学年先輩に田淵幸一さんがいた。そりゃ、もうとんでもない飛距離でした。飛距離だけは天性のもの。教えて、どうのこうのできるもんじゃない。それを岡田は持っていましたね」

 T−岡田には飛距離に関する伝説もある。それは中学時代のものだ。
 本人の回想。
「あれは中2やったと思います。僕はボーイズリーグの箕面スカイラークというチームに所属していた。場所は中島野球場。ピッチャーは今、阪神にいる若竹竜士。中学生では絶対に越えられないと言われたフェンスを越えていった。多分、130mか140mは飛んだと思います。あれは完璧な一撃でした」
 この大ホームランで岡田貴弘の名は一躍、大阪中に広まった。いくつもの強豪校から誘いがきたが、岡田は「自宅に近い」という理由で履正社高に進学した。

 指導にあたったのは監督の岡田龍生だ。
「入学した頃、彼は体重が100kgを超えていました。脂肪の多い体質では故障すると思い、まずは下半身を鍛えて体重を落とすよう指示しました。ランニングはもちろん、家と学校、学校からグラウンドまでを自転車で移動させました。学校からグラウンドまでは1時間以上かかったと思います。
 バッティングについてはどこも技術的にイジるところはなかった。もう1年生から4番ですよ。同級生に大阪桐蔭の平田良介(現中日)がいましたが、彼はどちらかといえば中距離ヒッター。岡田は完全な長距離バッターでしたよ」

 履正社のグラウンドは両翼が95m、中堅が115m。ライト後方には道路があるため、高さ15mの防護ネットが設けられている。
 しかし――。
「岡田の打球は軽々とネットを越えていくんです。おそらく140〜150mは飛んでいたでしょう。道路を走るバスや車にぶつかったら大変なことになるというんで、彼だけ金属ではなく木のバットで打たせました。それでも打球は外野フェンスを越えていました。
 彼自身もホームランへのこだわりは相当なものがあったようで、試合でホームランが出ないと首をかしげていました。“ヒットじゃアカン、ヒットも凡打と一緒”という意識があったんでしょうね。“高校で100本打て!”と発破をかけたことを覚えています」

 甲子園には縁がなかった。3年夏は大阪府大会の準決勝で平田、辻内崇伸(現巨人)、中田翔(現北海道日本ハム)らを擁する大阪桐蔭に3対11で敗れた。この試合の9回、岡田はリリーフした中田からバックスクリーンに弾丸ライナーを見舞う。意地の一発だった。

 この年の高校生ドラフトの目玉は最速156kmを誇るサウスポーの辻内だった。巨人とオリックスが辻内を1巡目指名し、当たりクジを引き当てたのは巨人だった。
 岡田を指名したのは辻内を射止められなかったオリックスだ。いわゆるハズレ1巡目。高校通算55ホームランのパワーが評価された。

 実は岡田の“ハズレ1巡目”を巡っては、球団内部に異論もあった。
 堀井が明かす。
「辻内がハズれた場合は岡田で行こうと決めていました。しかし、当時の小泉隆司球団社長が“高校生でファーストは必要なのか?”と。要するに“ハズレ1位で行く必要はない”ということです。
 社長からは“ホームラン20本打てるのか?”とも聞かれました。私は“いや、20本どころか将来は30本打てます”と即答した。
 その言葉に押されたのでしょう。“そうか、それなら獲れ”と。昨年、岡田がホームラン王を獲った。小泉さんからの年賀状には“岡田を獲っておいてよかったな”と書いてありましたよ」

 現在、球団で広報を担当する吉田直喜は、T−岡田が入った頃のことをよく覚えている。元投手の吉田は当時、二軍マネジャーを務めていた。
「ルーキー、とりわけ高校を出て入ってくる子は自分の居場所を探すのに懸命でキョロキョロしている。
 ところが彼の場合はマイペース。普通、ルーキーは道具の後片付けや荷物運びに追われるものなんですが、彼は最後の方に現れ、荷物出しも最後。アイツが荷物を出したら完了かな、という感じでした」
(写真:肉は好んで食べるが、性格は「どちらかと言えば草食系」)

 そこで付いたニックネームが「のんびり王子」。泰然自若とした物腰は早くから大物感を漂わせていた。
「本人に“のんびり王子や”というと“そんなことないです。ちゃんとやっていますよ”と答えるんですが、物おじしないどっしりした性格は今も昔のままです」
 しかし、ひとたびバットを振るとピッチャーを震え上がらせた。
 吉田は続ける。
「二軍はバッティングピッチャーが少ないので、僕らが投げる時もありました。岡田はスイングスピードが速く、飛距離も別格でした。ただ芯に当たる確率はまだ低かった……」

(後編につづく)

<この原稿は2011年10月8日号『週刊現代』に掲載された内容です>