<この原稿は2013年8月号の『小説宝石』(光文社)に掲載されたものです>

 

 現役時代、“ミスター・タイガース”と呼ばれ、甲子園球場で絶大な人気を誇った掛布雅之を「脇役」として取り上げることには少々、ためらいがある。

 

 しかし、テスト生同然のドラフト6位で阪神に入団し、目の前に立ちはだかる壁をひとつひとつ乗り越えてスターの座に就いた彼の野球人生は、出世魚のような物語に彩られている。

 

 脇役から主役へ――。その過程を巡ろう。

 

 1974年春。兵庫県西宮市にある若手選手の合宿所・虎風荘。入寮したばかりの掛布の部屋に、同期入団の中谷賢平が息急き切って駆け込んできた。

「今(合宿所の)洗濯物置場に行ってみたら、オマエのユニホームに31番がついとった。すごいやないか、カケ! オマエ、球団から期待されとる証拠や」

「ウソだろ!? オレにそんないい番号をくれるわけないじゃないか」

 

 昔も今もそうだが、ドラフト下位指名の高卒選手の背番号は50番台か60番台が相場である。中谷が驚くのも無理はない。

 

 掛布はキツネに頬をつままれたような表情で洗濯物置場に行ってみた。するとハンガーにかけられた背番号31のユニホームが、おだやかな風を受けて小さく揺れていた。

 

 振り返って掛布は語る。

「テスト生同然の高校出の野手が31番でしょう。ただただ信じられない気持ちでした。しばらくして“掛布の31は長嶋茂雄の3と王貞治の1を足した番号”と言われ始めましたが、もらった時は全くそんな意識はありませんでした。

 

 むしろ前の年までウィリー・カークランドがつけていたことの方がうれしかった。カークランドといったら、外国人選手でありながら田淵幸一さんと並ぶタイガースの顔だったわけでしょう。その背番号を僕がつけている。もう、うれしくって何度も鏡ごしに背番号をのぞいたものですよ」

 

 1年目の年俸は両リーグ最低の84万円。月給に換算すると、わずか7万円。その中から寮費と道具代が天引きされるため、手にする額は5万円を切っていた。

「当時は給料振り込みではなく手渡しだったため、25日のゲームが終わるとマネジャーの部屋に給料をもらいに行くんです。すると、選手全員の給料が並べて置かれてある。

 その中で一番、薄っぺらいのが僕の給料袋。小銭が入っていなかったら風で飛んで行ってしまうんじゃないかと思えるほど頼りない(笑)。でも少ないな、とは思わなかった。むしろ好きな野球でおカネをもらっていいのか、という感覚でした。

 で、一番立派なのが田淵さんの給料袋。これは横にしても立っちゃうんです。それをジロッと横目で見ながら“オレもあんな給料袋を手にする日がくればいいなァ……”と漠然と憧れた。もっとも、その頃は目標というより夢の世界でしたけどね」

 

 さらに、掛布は続けた。

「当時、一番憧れたのはトレーナー室でマッサージしてもらうこと。というのも、当時はまだ一軍のレギュラークラスじゃないとトレーナー室に入ってはいけないという“暗黙の了解”があったんです。

 僕なんか“すいません、絆創膏ください”と言ってノックしただけで“コラッ、何しにきたんや!”ですからね。まして、“マッサージしてくれ”なんて言ったら怒鳴りつけられてしまいますよ。そんな空気があの頃のトレーナー室には漂っていました。

 だから“早くレギュラーになりたい”という気持ちよりも、“早くあのトレーナー室でマッサージを受けてみたい”という気持ちの方が強かった。また、それが一番の励みでした」

 

 鉄は熱いうちに打て――。掛布の素質に惚れ込んだのが当時の打撃コーチ山内一弘だった。打撃コーチや監督として6球団を渡り歩いた山内のニックネームは“かっぱえびせん”。指導を始めたら、やめられない止まらない――。粘っこい指導法に定評があった。

「山内さんが打撃コーチとして阪神にやってきたのは、僕の2年目です。バットスイングをしている予定の一時間くらいに必ずゴルフクラブを2本持ってきて、屋上に上がってくるんです。

 山内さんはその2本のゴルフクラブを真剣に構え、“カケ、この間を抜いてみろ”と。狭い空間を振り抜け、というんです。要するにレベルスイングの大切さを体に覚え込まそうとしていたんです。

 この練習が大体、2時間。普通の練習も入れたら、もう4時間くらい振りっ放し。練習後にアンダーシャツを絞ったら、雑巾を絞った後の水みたいに汗がザァーッと出てくるんです。

 でも、これは役に立ちました。振る力がないと身体がギッコンバッタンして、レベルで(ゴルフクラブの間を)抜けないんです。

チームの練習が終わると、今度は室内練習で1箱分のボールを打ち込む。大体、300球から400球。

 山内さんは、これを往復で打たせるんです。右で打たせ、次は左で打たせる。手で振っているように見えて、実は下半身が上半身をリードしているんですね。また、そうしなければ、こうした練習には耐えられなかったと思います」

 

 掛布は順調に成長を遂げた。ホームラン数が、はっきりと、それを物語っている。

 

 入団1年目の74年、3本。2年目の75年、11本。3年目の76年、27本。この年は打率3割2分5厘、打点83を記録し、サードのレギュラーの座を掴み取った。

 

 プロ野球の世界において成長とは苦手の克服を意味する。2割4厘でスタートした打率が2割4分6厘、3割2分5厘と一足飛びに伸びたのは、不得手だったサウスポーを克服したからに他ならない。

「高校からプロに入って、一番びっくりしたのは左ピッチャーのカーブでした。大げさじゃなく、一瞬、ボールが視界から消えるんです。つまり想定している所より、さらに高い所から落ちてくるんです。

 ボールが消えるわけですから、恐怖心を伴います。ついボールを目で探そうとする。するとアゴが上がる。この段階で、もうバッターの負けです」

 

 サウスポーの中でも、特に掛布が苦手にしたのが巨人の新浦寿夫だった。183センチの長身から、鋭く曲がり落ちるカーブを投じた。落差に加え、ブレーキもあった。

「1回浮き上がってから沈む、ビルの2階というより、3階から落ちてくるような錯覚にとらわれました」

 

 そんなカーブを、どのようにして攻略したのか。

「首を動かしたら負けです。あくまでも自分の視界の幅だけでボールをとらえなくてはならない。

 そこで僕が考えたのは、鏡の上の印をつけることです。新浦さんのカーブを想定して、軌道の変わるポイントに印をつけるんです。それを首を動かさずに目だけで追う。

 左ピッチャーのボール、特にカーブのような頭の方から曲がり落ちてくる軌道のボールを正確に目でとらえようとすれば、(左打者は)右肩をちょっとオープン気味に開かなければならない。その方が視界が広く使えるんです。

 で、実際に打ちに行く瞬間、スクエアにする。(前の肩を)閉じておいて開くのはダメですが、その逆は悪くない。この方が打ちやすいんです」

 

 そうはいっても、頭部付近から曲がり落ちてくるボールに対する恐怖心は簡単にとれるものではない。

 

 ベンチからは「頭に行け!」とのヤジが飛んだ。そうやってバッターに恐怖心を植え付けるのだ。

「広島のキャッチャー達川光男なんてマスク越しに“なぁカケ、申し訳ないけど、左ピッチャーの時は(オマエが)尻持ちつくまでインコース攻めさせてもらうぞ”なんて、つぶやくんですから。で、本当に尻持ちつくと“悪いなぁ、ベンチに言われてるんだよ”と、こうですよ。こちらの恐怖心に訴えかけてくる。

 でもね、大きな舞台でやっていると、不思議なもので、いつの間にか頭の線が2、3本切れてくるんです。恐怖心がなくなってくる。スタンドの熱気がそうさせるんでしょうね。

 そうやっているうちに“カーブを待っていてストレートをファウルすることはできないものだろうか……”などと考えるようになる。バッティングの基本はストレートを待って変化球に対応することですが、左ピッチャーに対して最初からカーブを待っていれば絶対に肩は開きませんからね。カーブを待ってストレートをヒットにできれば、もう鬼に金棒です。この技術を身に付けてから、すごくバッティングが楽になりましたね」

 

 入団4年目の77年は3割3分1厘、23本塁打、69打点。5年目の78年には3割1分8厘、32本塁打、102打点を記録する。

 

 もうタイトルは手を伸ばせば、すぐのところにあった。3年連続で3割台をマークしたこともあり、大方の評論家は「最初に手にするタイトルは首位打者」と見ていた。

 

 ところが79年、掛布は48本塁打を記録し、ホームラン王に輝くのである。

「正直言って、僕は40という数字は超えられないと思っていました。この小さな体で、しかも左には不利な浜風の吹く甲子園ですから。ところが9月の広島戦で福士明夫さんから左中間に40本目のホームランを打っちゃった。ベンチに戻った時、怖くて手と足がブルブル震えていました。怖かったんです。

 その時ですよ。初めてホームラン王を意識したのは……。“どうしよう、これでホームラン王獲れなかったから、かっこわるいな”って。で、神宮球場での3連戦で4本打った。その時、僕を追っかけていたのが広島の山本浩二さんです。浩二さんは、前年に初めてホームラン王を獲っていた。

 僕が神宮で4本打って44本にした時、広島の方から“もう、浩二は白旗を揚げたよ”という声が聞こえてきた。その頃ですよ、広島市民球場でバックスクリーンにぶつけるホームランを打った。センターの浩二さんは最初1、2歩前に出てきて、慌ててバックした。自分で言うのも何ですが名手が目測を誤るくらいすごい当たりだったんです。

 その翌日です。僕の打球を目の当たりにした衣笠祥雄さんが球場で僕に、こう言いました。“カケ、すごいホームランだったなぁ。あれで今年はオマエが勝ったと思うぞ”って。

 続けて、こうも言いましたよ。“あの浩二が目測を誤るなんて……。あの打球で浩二はオマエに対する怖さを感じたと思うぞ。頑張ってくれよ”って。まさか敵の先輩選手に褒められるなんて思ってもみませんでしたよ」

 

 掛布48本に対し、山本42本。最終的には6本もの差をつけての戴冠だった。

 

(後編に続く)


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