(1) 小さい頃から運動神経抜群だった法兼駿は、小学5年まで野球、陸上、少林寺拳法の3つを習っていた。中でも野球は人数合わせでスタートしたものだったが、徐々に真剣に打ち込むようになり、いつしか“全国出場”という目標が生まれる。しかし、ある時を境に、出るだけではなく、全国で勝つことに変わった。その背景には「兄の存在」が大きく影響していた。

 

「小さい頃、あまりプロ野球は見なかったです……」。法兼がそう答えるのも無理もない。平日は学校が終わると陸上と少林寺拳法に励み、土日は野球の練習という日々を過ごしていた。父・政俊は「絶えず動いていましたね。ずっと動いていました」と言うほどとにかく活発な子だった。

 

­­ 最初に始めた習い事は「少林寺拳法」だった。法兼が生まれ育った香川県は少林寺拳法発祥の地である。従って県内で盛んだった。幼稚園の時に仲の良い友だちに誘われて見学にいくと、そのカッコよさに惹かれた。しかし、ライバルも多く全国への道を歩むのは容易ではない。法兼は「県内で終わる大会がほとんどだったから、あまり続けようとは思わなかった」と、長年続けた少林寺拳法を小学5年のときに辞めた。

 

 少林寺拳法と並行して、小学校入学とともにスタートしたのが「陸上」である。学校の先生から「陸上クラブに入ったらどうだ?」と誘われたことがきっかけだ。校内では一番足が速かった。その俊足を生かし、香川県でハードル走2位に輝いたこともある。陸上選手としての素質は十分あった。だが、陸上も全国への壁は厚かった。法兼に勝った県1位の選手が、全国大会では予選敗退だった。法兼は陸上で全国を目指すことの難しさを痛感した。

 

 野球の道、一本に絞ったのは小学6年のときである。当時、コーチとして法兼を指導していた父・政俊は「­行ける時に練習に参加していたら、自然と­野球の比率が多くなったから、野球を選択したんでしょうね­­」と口にする。法兼は本格的に野球に打ち込むと、メキメキと成長を遂げた。その年に目標だった全国大会出場を達成する。しかし、結果は2回戦敗退。この時、はじめて自分と全国レベルの差を知った。

 

兄の背中を追いかけて

1 そもそも法兼が野球を始めたきっかけは、父親と兄の存在があったからだ。3歳上の兄・優は、父・政俊がコーチを務めるチームで先に野球を始めていた。兄・優はとにかく勉強熱心で頭がよかった。兄弟はあまり似ていなかった。法兼は「僕とは性格が全く違った。兄は家でもめちゃくちゃ練習するタイプ。僕は父に“オマエはやったんか? やってこい!”と言われて、やらされるタイプでした(笑)」と話した。兄の真面目な一面は勉強だけに限らず、野球に対する姿勢も同じだったという。

 

 対照的な性格だったが、兄弟喧嘩は一切­なかった。2人の成長を一番近くで見てきた父・政俊がこんなエピソードを教えてくれた。法兼が小学校を卒業するときに、“尊敬する人は?”と質問された際に、迷わず「兄ちゃん!」と答えたという。父親的には“そこはせめてお父さん­って言えや!”との思いがあったと、笑いながら話した。それほど2人は仲が良かった。何より法兼にとっての兄・優は尊敬する存在でもあった。

 

 兄弟で同じスポーツをしていると、時には比較もされる。周囲からは「優の弟か」と言われることもあったが、とくに嫌な気持ちにはならなかった。しかし、その分、“自分も結果を出さないといけない”と責任も感じていた。兄・優は丸亀市飯山中学に進むと、3年時に主将としてチームを全国中学校軟式野球大会(全中)準優勝に導いた。全中で大活躍する兄を見て、法兼には大きな目標が生まれる。それは、野球で憧れの兄を超える――。つまり全国制覇だった。

 

 兄の背中を追いかけて、飯山中に進み、野球を続けた。3年になると法兼も主将に抜擢された。ここまでは、全く同じ道を辿っていた。だが兄・優と大きく違ったのは、法兼の代では全国大会に一度も出場できなかったことだ。全国制覇どころか、その舞台にすら立てなかった。

 

 卒業後の進路は、兄・優と同じ高校を希望していたが、大学受験を見据えて断念した。高校でも野球を続けるつもりだった法兼は進学先を決める時に3年生最後の夏を思い出した。四国中学総合体育大会で対戦した相手は、高知県代表の高知中学。結果は0対5で完封負けだった。ギリギリまで悩んだ末、「めちゃくちゃ強いコイツらと一緒に野球をやったら、全国に出られるかも」と思い、中高一貫校である高知高へと進むことを決めた。生まれて初めて兄とは違う道を歩むことを選択したのだった。

 

 生まれ育った香川県を出て、入学した高知高は甲子園常連校だった。春夏ともに甲子園優勝経験のある高知高といえば、これまで有藤通世(元ロッテ)、杉村繁(元ヤクルト)ら数多くのプロ野球選手を輩出してきた名門である。­­法兼は技術を磨くために敢えてレベルの高い環境に飛び込んだ。目標である“全国制覇”を果たすために――­。

 

(つづく)

 

(4)<法兼駿(のりかね・しゅん)プロフィール>

 1994年12月7日、香川県丸亀市飯山町出身。兄の影響で小学1年のときに野球を始めた。飯山中では軟式野球部に所属。高校で硬式に転向した。高知高ではショートで1年時からベンチ入り。2年秋には、四国大会準決勝の9回に決勝ホームランを放ち、センバツ出場を決めた。自身初の甲子園出場を果たした。3年夏には高知県大会決勝で6打席5四球と勝負を避けられる。チームは延長戦の末に敗れ、2季連続の甲子園出場は逃した。高校通算40本塁打をマークし、亜細亜大学へ進学。1、2年時は故障の影響で伸び悩んだものの、3年春から出場機会が増えて、秋にはセカンドのレギュラーを掴みとった。昨秋のリーグ戦で34打数16安打4打点1本塁打を記録し、打率4割7分1厘。首位打者と二塁手のベストナインに輝いた。身長173センチ、体重76キロ。 右投左打。

 

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(文・写真/安部晴奈)

 

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