9  部員が100人以上所属する四国の強豪・高知高でも、法兼駿は飛び抜けた存在だった。1年から遊撃手としてベンチ入りを果たすと、すぐにレギュラーを掴む。3年になると、県外出身者にもかかわらず主将に指名され、高校球児の“夢の舞台”に出場した。野球人生を順調に進む法兼に突如として“試練”が襲ってきたのは大学1年生の時だった。

 

 高校球児なら誰もが目指す甲子園の切符を掴んだのは、法兼が主将として新チームが始動してすぐのことである。2011年10月29日、第64回秋季四国地区高等学校野球大会準決勝。明徳義塾(高知)とセンバツ出場をかけた大一番でぶつかった。

 

 試合は最終回までもつれる展開となる。9回表、4-4の場面で法兼に打席は回ってきた。法兼はカウント1-0からの2球目、甘く入ったボールを振り抜いた。打球はライナーでライト方向へ一直線。明徳のライトも途中で追うのをやめた。ポールを直撃する決勝3ランを放ち、チームを甲子園に導いた。敗れた明徳は4季連続の甲子園出場を逃したかたちとなった。

 

 しかし、自身初の甲子園はあっけないものだった。第84回選抜高校野球大会。この大会には、大阪桐蔭の藤浪晋太郎(阪神)、岩手・花巻東の大谷翔平(北海道日本ハム)など、現在プロ野球で活躍する“スター世代”が集結していた。法兼は彼らを目の当たりにして“全国はすごい”と圧倒されてしまったという。

 

 その気持ちが試合にも影響を及ぼした。結果は初戦の横浜高(神奈川)相手に0-4で完敗。自身は4打数無安打に倒れた。「気持ちの面で受け身になっていたので、まったく手がでなかった」と振り返る。幼少期からの目標である“全国制覇”には足元にも及ばなかった。

 

 春が過ぎ、夏を迎えた。3年の法兼にとって、夏の甲子園が悲願の全国制覇へのラストチャンスだった。しかし、高知県予選の決勝で宿敵・明徳に行く手を阻まれ、全国大会に行くことすら叶わなかった。この年の法兼は予選準々決勝、準決勝でいずれもホームランを放つなど打撃が絶好調だったことに加え、前回の明徳戦では決勝打を打っていた。徹底マークは必至である。そこで明徳は高知高ベンチの予想を遥かに超える“法兼対策”を仕掛けてきたのだ。

 

 6打席回ってきた法兼に対し、3四球2敬遠。この試合で法兼がまともに勝負をしてもらえたのは、最初の2打席だけだった。それほどライバル校から恐れられる存在であったとも捉えられるが、本人からすれば “つまらない試合”だった。4番法兼を封じられた高知高は明徳に延長12回までもつれる接戦の末、サヨナラ負けを喫した。法兼は「自分が打って勝つのが一番理想的です。でも、それができなかった唯一の試合でした」と話した。

 

故障に悩んだ日々

5 13年春、法兼は東都の名門・亜細亜大学へ進学した。生まれ育った四国を離れ、関東の亜大入学を決めた理由のひとつに「生田勉監督の存在」があった。法兼にとって生田監督は「行動、考え方の全てが尊敬できる人」である。だが、尊敬する監督のもとで野球を始めようとしていた矢先、彼に“大きな試練”が襲ってきた。

 

 法兼は入学直後から腰痛に悩まされる。次第にその痛みは大きくなり、夏頃には左足が麻痺して歩けなくなるほど悪化した。病院で医師に診てもらうと「椎間板ヘルニア」と告げられる。これまで故障をしたことがない法兼にとって、この時のショックは計り知れないほど大きかった。

 

 痛み止め注射を打つか、手術を受けるか、どちらか一方の選択を迫られた。スポーツ界を見渡すと、ヘルニアの手術を経て、活躍している選手も多くいる。しかし、手術をしても完治するとは限らない。術後から復帰までの道のりが容易ではないことは法兼も想像できた。

 

 当時を振り返り、「野球を辞めようとは思わなかった?」と問うと、法兼は「思いました。手術してもまた再発するかもしれませんでしたから……」と胸の内を明かした。

 

 実は法兼が野球から離れようと思った理由はヘルニアだけが原因ではなかった。同じ頃に、彼が信頼を寄せる生田監督が体調を崩して入院した。悪いことは立て続けに起きるものだ。

 

“生田監督が辞めるかもしれない”との噂を耳にした法兼は、「生田監督が辞めるなら僕も辞めます」と監督に伝えに行ったという。それに対して生田監督は「辞めたいなら辞めれば?」と返しただけだった。冷たくも聞こえるが、この一言には監督なりの“想い”があったのだろう。

 

 負けず嫌いな法兼は「大学でも結果を残して終わらな、恥ずかしい」と思い、野球を続けるために手術を選択した。もう一度、野球ができる体を手に入れるために長期間のリハビリに耐えることを決めたのだ。努力の甲斐あって、彼はわずか半年でチームに復帰することができた。

 

 人は当たり前が当たり前でなくなった時に、初めて日常のありがたみを感じる。それと同じで、法兼は故障を通じて野球ができることの“喜び”を知った。半年ぶりにバットを振った時の感触は今でも忘れられない。

 

 法兼がリハビリ中の13年秋、亜大は神宮大会で大学日本一に輝く。決勝で亜大は東京六大学連盟代表の明治大を2-1で破り、7年ぶりの優勝を果たした。法兼は神宮球場のグラウンドで歓喜に沸くナインをスタンドから見ていた。「故障をしていなければ、あの中にいたかもしれない……」。この時の悔しさをバネに、彼は急成長を遂げることになる。

 

(つづく)

 

(4)<法兼駿(のりかね・しゅん)プロフィール>

 1994年12月7日、香川県丸亀市飯山町出身。兄の影響で小学1年のときに野球を始めた。飯山中では軟式野球部に所属。高校で硬式に転向した。高知高ではショートで1年時からベンチ入り。2年秋には、四国大会準決勝の9回に決勝ホームランを放ち、センバツ出場を決めた。自身初の甲子園出場を果たした。3年夏には高知県大会決勝で6打席5四球と勝負を避けられる。チームは延長戦の末に敗れ、2季連続の甲子園出場は逃した。高校通算40本塁打をマークし、亜細亜大学へ進学。1、2年時は故障の影響で伸び悩んだものの、3年春から出場機会が増えて、秋にはセカンドのレギュラーを掴みとった。昨秋のリーグ戦で34打数16安打4打点1本塁打を記録し、打率4割7分1厘。首位打者と二塁手のベストナインに輝いた。身長173センチ、体重76キロ。 右投左打。

 

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(文・写真/安部晴奈)

 

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