細川をマークしていたナモアは、平尾からウィリアムスへの背中越しのラストパスにタイミングを崩されたため、ウィリアムスのスピードについていくことができず、約5メートル、文字どおり後塵を拝し続けた。23歳のトンガ人の脳裡に、屈辱の記憶が刻まれたことは言うまでもない。

 

<この原稿は1997年発行の『スポーツ名勝負物語』(講談社現代新書)に掲載されたものです>

 

 数秒間の沈黙のあと、ナモアはゆっくりと語り始めた。

「確かに僕は細川をマークしていました。また、細川なら止めることができたと思います。しかし、平尾は僕のことをよく見ていた。平尾のパスが僕の頭の上を通過した瞬間、“まさか!”と思いましたよ。ウィリアムスをマークしていなかったのは、その前に彼が、ノホムリのものすごいタックルを受け、足がふらついて動けない状態でしたから。ところがボールを持ったら違っていました。まさか、あんなに速いなんて」

 

 ゴールラインの間際、ナモアがすがるように差し出した右手は、黒のジャージに冷酷に振りきられた。ナモアの指先が最後に触れたのは、秩父宮に舞う身を切るように冷たい風だった。

 

「何メートル走ったの? 50メートル? 長かったですね……。最後は、襟首をつかまえようか、飛び込んで足首を掴んでやろうか、ちょっと迷いました。それにしても、あんなことになってしまうなんて……。僕、神様のこと、ずっと信じていたんですけど、まだ信じ方が足りなかったんでしょうね……」

 

 試合後、ナモアはショックのあまり一言も発することができなかった。ロッカルームを出ると、職場の仲間たちがおいおい声をあげて泣いていた。それを見て、ナモアも号泣した。「いや、キミが悪いんじゃないんだ」と慰められても、涙は止まらなかった。

 

 群馬県大泉町にある三洋電機の寮に帰ってからも、そのシーンが頭から離れず、ナモアは一週間近く眠れない日々が続いた。ご飯を食べてもおいしくない。会社に出ても仕事に身が入らない。

 

 ナモアがグラウンドに姿を見せたのは、社会人大会決勝からちょうど一週間後の1月15日のことだった。この日、国立競技場では三洋電機を辛くも振りきった神戸製鋼と、明治大学との間で日本選手権が行われていた。

 

 犬の散歩がてら、ふらりとグラウンドを通りかかった宮地監督の目に飛び込んできたのは、白い息を吐きながら黙々と走り込むナモアの姿だった。

 

 宮地の回想――。

「練習は休みのはずなのにいったい誰や? と思うたらナモアやった。たったひとりで、思い詰めたように走っとった。それも普通の走り方じゃなく、途中から急にスピードを入れたり、逆に抜いたりしていたよ。ウィリアムスを倒すことを想定しとったんやろうね」

 

 ナモアにその話をすると、彼は小さくうなずき、自ら言い聞かせるように言った。

 

「もう、あんな悔しい思いはしたくない。そのためにはスタミナやスピードを練習でつけるしかないでしょう。とくにスタミナね。僕にあの時、もっとスタミナがあったら、ウィリアムスをつかまえることができたんです。もっとスタミナさえあれば……」

 

 ナモアは95年4月に日本人女性と結婚し、寮を出て社宅に引っ越した。部屋には新婚家庭には似つかわしくない写真が一枚、無造作にピンで止められている。そのフレームに自らを振りきって、今まさにウィリアムスがトライを決めようとしている決定的な瞬間がおさめられていた。

「いつか神戸に勝って優勝するまでは、ずっとこのままにしておくよ」

 

 この試合、結末こそ劇的だったが、逆転の予感は残り時間15分を切ったあたりから始まっていた。

 

 後半24分、三洋電機のNo.8のシナリ・ラトウがサイドアタック。神戸製鋼のディフェンスを引き連れ、ノーマークになったWTB新野にパス、そのままインゴールの芝に飛び込んだ。これで得点は16対9。この時点で勝負はついたと思われた。さしもの平尾も、「負けるときはこんなもんなのかな」と、漠然と感じたという。メインスタンドでは宮地監督が「ヨッシャ!」と大声を発し、勝利を確信した関係者から次々に握手をうけていた。

 

 しかし、後半29分。細川が左中間26メートルのペナルティーゴールを決め16対12。ワントライ、ワンゴールで逆転できる点差に詰めてから、神戸製鋼は猛然と反撃を開始する。それまでとはうって変わってペナルティーゴールをあえて狙わず、津波のようなオープン攻撃でトライを奪いに出た。それを必死の形相で組み止める三洋電機フィフティーン。後半38分には、鋭いステップで中に切れ込んで藪木を大草が吹っ飛ばし、40分には、ファウルをとられはしたが、ノホムリが相撲のぶちかましのようなハードタックルで、ウィリアムスを枯れ芝にたたきつけた。

 

「とにかく前で、前で倒す。この日のウチのディフェンスは天下一品。最後の部分を除けば会心の試合でした」

 

 SHの児玉耕樹は、そう言ったあとでかすかに嘆息し、しみじみと続けた。

「平尾さんは同志社大学の僕の一年先輩です。これは彼のクセなんですが、フォワード戦でいかれ始めると、カリカリしだすんです。“こら、フォワード!”とか言ってね。この試合ではたびたびそういう素振りを見せていたので、これはウチのペースかな、と。本当に、あの最後の部分さえなければ……」

 

 私が三洋電機を訪ねた日、赤城おろしが吹きつける初冬のグラウンドでは、95-96年の予選リーグ突破に向けて気迫のこもった練習が続いていた。シャツを脱ぐと選手たちの汗は陽気となって北関東の乾いた空に立ち昇った。質問の趣旨を告げると、ラトウは表情を消し、さらりと言った。

「あの試合のことはもう忘れたよ。負けは負け。ただそれだけのことだよ」

 

 やがてグラウドから次々と人影が消え、ひとりの男だけがベンチに残った。はからずも逆転劇の遠因をつくったSOの大草だった。あの試合、ラックの中で彼は逡巡し、葛藤した。目の前にあるボールに手を伸ばすべきか、否か――。

 

 大草は白い息を吐き出しながら、無人のグランドを見つめ、噛みしめるように言った。

「悔しいけど、あれでよかったんだと思います。もし、あそこで反則をおかしていたら、たとえ勝ったとしても、僕のラグビー精神は汚れたものになっていた。負けたことで僕には“打倒神戸”という目標ができ、いまもそれは続いている。まだすべては終わっていないんです……」

 

(おわり)


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