だが案の定、プロの水は甘くなかった。社会人出身の先輩同様、木製バットの壁にぶつかったのである。
 松中の回想。
「正直言って最初のうちは木製の使い方がわからなかった。例えて言うならば金属が(ボールとの)衝突であるのに対し、木製はムチ。先にヘッドを出すんじゃなく、ムチのようにボールが当たる瞬間にヘッドを走らせる。そんなイメージなんです。金属に慣れ親しんでいると、どうしてもドアスイング気味になる。インコースを攻められると手が出ない。最初のうちは苦労しましたよ」
(写真:今季は控えに回ることも多かったが、「気持ちを切ったら終わり。見返してやろう」と心は燃えていた)
 即戦力と期待されながら1年目は一軍での出場が、わずか20試合にとどまった。打率2割9厘、0本塁打、6打点。2年目を迎えるにあたり、傷心の面持ちで松中はこう語った。
「金属バットのスイートスポットが10cmだとしたら木製は5cmあるかないか。社会人時代についたバットが遠回りしたり、下から出るクセが直っていなかったため、しめた! と思った打球が全部ポップフライやファウルになる。これはショックでした」

 この年、二軍監督に就任したのが米国でのコーチ留学を終えて帰国した石毛宏典である。彼の目には「松中はクサっている」と映った。
「なんでオレが二軍なんじゃ、という気持ちがありありと出ていました。結果が出ない焦りもあったんでしょう。聞く耳を持つようになったのは、しばらくたってからです。彼は打つにしても投げるにしても外側の筋肉ばかり使っていた。打つほうはドアスイング。左の脇が開き、上体が突っ込む。これを矯正するため、バットを寝かせました。するとスイングの際、左ヒジが体に張り付くようになった。お盆を持つかたちとでも言ったらいいのかな。そのようにして、少しずつかたちを変えていったんです」

 2年目、34試合に出場して打率2割6分8厘、3本塁打、10打点。成績は芳しくなかったが、9月5日の西武戦でプロ入り第1号を含めて2本のホームランを放った。広い福岡ドームでのフェンスオーバーだったこともあり、これは大きな自信になった。

 迎えた3年目の99年。松中はブレークする。時には5番も任され、126試合に出場した。23本塁打、71打点。この年、ホークスは福岡に本拠地を移してから初めてリーグを制し、日本一にもなった。監督就任2年目には成績不振でファンから生タマゴをぶつけられる屈辱を味わった王貞治を胴上げしながら、松中は感涙にむせんだ。
「僕は元々が巨人ファン。王さんと一緒にやれるなんて夢にも思っていなかった。王さんから教わったことは今も僕の財産になっています」

“世界の王”からは、どんなアドバイスを受けたのか?
「プロに入る前は“バットは体で振れ!”という教えでした。しかし王さんの教えは、それとは逆。“バットは体で振っちゃいかん”と。“壁をしっかりつくって、ちゃんとミートポイントまでバットを出せ”というものでした。
 失礼ながら、最初は王さんの言っていることが全然わからなかった。そんな打ち方したら反対方向にしか飛ばないだろうって……。やっとわかり始めたのはレギュラーを取ってから。確かに体で振るとバットがしなってこないんです」

 低反発の統一球、いわゆる“飛ばないボール”の影響で周知のように今季はホームランが激減した。どうすれば統一球を遠くへ飛ばせるのか。王は「もう少し長距離砲はポイントを前にしてもいいと思うな」と答え、続けた。
「昔は左打者なら右、右打者なら左に切れるファウルが多かった。それだけ振り切っていたんだよ。変化球全盛の今、どんなボールにも対応しようという気持ちはわかるが、三振を恐れない、思い切ったスイングも必要じゃないかな」

 前で叩く――。王は松中にも口を酸っぱくして言った。
「王さんがおっしゃるのは“真っすぐに詰まるな”ということだと思うんです。なぜかと言うと年をとると、徐々に真っすぐに振り遅れるようになる。必然的に成績も落ちてくる。そうなると“引退”の2文字が頭をかすめ始める。
 ベテランになると変化球には対応することができる。一番厄介なのは速いボールです。差し込まれるとファウルになる。だからポイントを前にして、一球で仕留める準備と集中力がなければ、この世界で長くやることはできない。それが王さんの経験から導き出された結論だと思うんです」

 04年には史上7人目の三冠王を達成した。06年には王ジャパンの一員としてWBCに出場し、世界一になった。
「王さんに育ててもらったおかげでここまでやってこられた。苦しい時でも4番としてずっと使い続けていただいた。病気になってもグラウンドに立ち続けた偉大な姿は今でも忘れることができません」
 齢を重ね、王貞治への畏敬の念は深まるばかりだ。

「あの時の苦しさを考えたら、どんな苦しみにも耐えられる」
 松中が選手生命の危機を迎えたのは高校1年の時である。左投げの松中は打撃投手に駆り出された。当時、熊本県下にはサウスポーの好投手が多く、その対策のためだった。

 来る日も来る日も、先輩たちに向かってボールを投げ続けた。慣れない硬球ということもあって、ついに左ヒジが悲鳴を発してしまう。
「急にヒジが曲がって伸びなくなりました。病院でレントゲンを撮ると、骨の中が空洞になっていた。普通なら白くなるところが透明に写っているんです。手術もできない状態だと。“あぁ、もうオレは野球できないんだ……”。絶望的な気持ちになりました」

 救いの一言を発したのは父・敏治だった。
「左が無理なら、右で投げればいいじゃないか」
 言うは易し、行うは難しだ。小学生ならいざ知らず、彼はもう高校生なのだ。鉛筆を握ったり、箸を持つことはできても、ボールを投げたことは一度もない。ある意味、無謀な挑戦だった。

「最初は半信半疑でした。でも、このままボケーッとしていても先はない。野球を続けるためには、とにかく右で投げられるようにするしかない。もう必死でした。努力の甲斐あって、半年後にはある程度、投げられるようになっていた。僕はあの時に本当の努力の大切さを知りました。不可能なことでも努力すれば可能になるんだと。要は自分を信じてやれるかやれないか、それだけなんですよね」
 そして、ポツリとつぶやいた。
「あの経験は野球だけでなく、僕の人生のターニング・ポイントだったと思っています」

 肥後もっこすの武骨なるそのたたずまいは、幾多の試練を乗り越えてきた不撓不屈の日々を色濃く映している。
「勝負弱いというレッテルをまだ僕は貼られている。もっと爆発したい」
 老兵は死なず、いざ戦場へ――。

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<この原稿は2011年10月26日号『週刊現代』に掲載された内容です>