伊達公子さんが激怒していたのは、確か、一昨年の年末だった。深夜、突如として自宅に押しかけてきたアンチ・ドーピング機構の調査員。その挑発的な態度は、伊達さんをして警察への出動要請を決断させるほどだった。顛末を記した彼女のブログは大きな話題となったため、覚えていらっしゃる方も多いと思う。

 

 あの時、わたしも含め世間は概して伊達さん寄りだった。なんて無礼な調査員。そんな受け止め方が一般的ではなかったか。だが、シャラポワのドーピングを暴いたのも、おそらくは無礼な調査員だったはずで、そう考えると複雑な気持ちになる。きっと、伊達さんをはじめとするテニス選手は、今後も“無礼な調査員”に悩まされるはずなのだ。

 

 ただ、個人的には、ドーピングの撲滅は核兵器の廃止並みに難しいのでは、と思っている。使用すれば破壊的な効果を発揮するが、使用されたあとには深いダメージが残る。それがわかっていても、より多くの、あるいは効果的なエネルギーを求める科学者の熱意に歯止めがかかることはない。そして、勝つためには最新兵器を手にしたいと考える人間が、そうした技術に手を伸ばす。考えてみれば、世界でもっとも多くの核兵器を持っている国が、声高にドーピングの禁止を訴えているのだから、これはなかなかの皮肉である。

 

 サッカー界とてドーピングと無縁だったわけではない。78年大会ではスコットランドのジョンストンが、94年大会ではマラドーナが検査に引っ掛かり、大会途中にチームを追われている。しかし、どちらの選手も使ったのは肉体ではなくメンタルに作用するタイプで、直接的に運動能力に作用を及ぼすものではなかった。実際、五輪の他の競技に比べると、サッカーはアンチ・ドーピング機構からも優等生扱いされているような印象がある。

 

 だが、安穏としていられる時間は、おそらく、もうそんなにはない。

 

 クライフはヘビースモーカーの痩せっぽちだった。82年W杯得点王のロッシは、バンビにたとえられるほどに華奢だった。技術は、体力を凌駕する――。そんな信念めいたものを、かつては多くのサッカー関係者が抱いていた。

 

 だが、クリスティアーノ・ロナウドの鍛え抜かれた肉体が、確実に得点力の一助になっていることを、いまや世界中の人が知っている。ブンデスリーガなどでは、従来の常識では考えられないほどのラン、スプリントを繰り返すチームが出現してきている。サッカーは匠たちの時代から、他の競技同様、運動能力を競い合う時代へと移行しつつある。

 

 より強い肉体を。より速く、より疲れにくい肉体を――。ドーピングを生み、密かに育んできたのは、そうした選手の欲求と、科学者の熱意だった。サッカーだけが無縁でいられる保証は、もはやどこにもない。

 

<この原稿は16年3月17日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから