ジャイアント馬場(本名:馬場正平)が亡くなってから早いもので13年が経つ。多くのスポーツファンにはジャイアント馬場=プロレスラーというイメージしかないだろうが、彼は元巨人の投手だった。1軍ではわずか3試合の登板だったものの、2メートルの長身から投げおろす投球スタイルで2軍では最優秀投手に選ばれている。マウンド上での見上げるような姿とは裏腹に人柄が良く、当時のチームメイトたちは「馬場さんには仲良くしてもらった」と異口同音に口にする。今回、プロ野球選手・馬場を探るべく、二宮清純が関係者にインタビューを試みた。
 まずは馬場と同じ1938年生まれ(学年は早生まれの馬場が1つ上)の中村稔。プロ入りは2年、中村のほうが遅かった。中村は61年に17勝、65年に20勝をあげるなど、その後、主力投手として活躍した。
(写真:引退後は藤田監督らの下で巨人の投手コーチなどを務めた)

二宮: 馬場さんと初めてお会いした時の印象は?
中村: 実は入団から1年間、多摩川の寮で馬場さんとは同部屋でした。入寮した時は誰と一緒になるか知らなくて、部屋で荷物を整理していると馬場さんが帰ってきた。「おう」って大きな体をかがめながら部屋に入ってきたのでビックリしました。僕は1年生だったから、馬場さんに夜、布団を敷いてあげたんですが、本当に大きな布団でしたよ(笑)。

二宮: プライベートでも仲が良かったそうですね。
中村: ええ。麻雀も酒も一緒に覚えました。買い物にもしょっちゅう出かけました。出かける時には靴を履くんですが、馬場さんのそれは本当にでかかった。僕も足のサイズが27センチくらいで当時にしては大きなほうでした。でも靴を履いたまま、馬場さんの靴にすっぽり僕の足が入ったんです(笑)。そのくらいでかかった。スリッパも顔の大きさくらいあったな。間違って馬場さんのスリッパを履いてしまったことがあったのですが、まるで子供が大人のスリッパを履いてパタパタ音を立てて遊んでいるような感じがしましたよ。

二宮: そんな大きな靴だと市販モノではないでしょう?
中村: もちろんです。渋谷の道玄坂まで出かけていって靴屋で別注でつくってもらっていました。彼はなかなかのオシャレで、服は蒲田の洋品店に頼んでいました。当時はアロハシャツが流行ったので早速、それをつくってもらったり、部屋のカーテンもアロハ模様にしていましたね。

 続いては2歳年上の安原(現・渡邊)達佳。巨人入団は馬場より1年早かった。馬場がルーキーイヤ―だった55年には12勝をあげるなど、若くして先発ローテーションの一員に入った右腕だ。
(写真:現在は赤羽冶金の代表取締役としてビジネスの世界で活躍中)

二宮: 馬場さんは後輩にあたるわけですが、ピッチングの印象は?
安原: 驚いたのは指の長さですね。普通の選手だと指先から第一関節あたりでボールを支えられるんですけど、彼の場合は手が大きいので(指の付け根に近い)第二関節あたりまで持ってこないと握れない。すると砲丸投げみたいなかたちになりますから、ボールにあまり回転がかからないんです。しかもボールが遅れてでてくる感じになる。スピードはそこそこでしたけど、対戦するバッターは戸惑ったと思います。

二宮: キャッチボールをしたことは?
安原: キャンプなどでは、いつも私が相手をしていました。ドスンとくる感じで重いボールでしたね。

二宮: 変化球の球種は?
安原: カーブを投げていました。ドロップのような感じではなく、背が大きいせいかスライダーよりも大きい軌道でググッと曲がって落ちる変化をしていましたね。

二宮: 馬場さんの持ち味は長身からの角度のあるボールに加え、コントロールも良かったようですね。
安原: そうですね。当時はピッチャーはあまり腕に筋肉をつけちゃいけないと言われて、筋力トレーニングをしなかった。馬場さんは腕の筋肉がそんなになくて細かったから、今のようにウエイトトレーニングなどをやっていれば、もっと成功したんじゃないでしょうか。

<現在発売中の『文藝春秋』2012年3月号では「プロ野球伝説の検証」と題し、中村さん、安原さんらの証言を元に馬場さんの巨人時代の様子を解き明かしています。こちらも併せてご覧ください>