160506走る溝渕(加工済み) 溝渕雄志は自身の小学生低学年時代を「かなりやんちゃでした。喧嘩して割と激しくいっちゃうような子でした」と笑いながら振り返る。雄志の父・弘幸も「図工や絵も上手でしたが、やんちゃでした。それと幼稚園の頃から足は速かったです」と証言する。自他ともに認めるやんちゃ坊主がサッカーに出合ったきっかけとは――。

 

 

 

 

 

 

 

 

<2016年5月の原稿を再掲載しております>

 

 

 幼少期から雄志は俊足の持ち主だった。この快速に目をつけた人物が声をかけ、サッカーを始めるきっかけを与える。本人は当時を懐かしむようにこう語った。

「1年生の時、運動会で僕が走っている姿を見て近所の友達のお母さんが“足が速いから、絶対サッカークラブ(築地SSS)においで”と誘ってくれたんです。それで築地SSSの練習に行ってみて、ボールを蹴ってみたら楽しかったので、サッカーを始めました」

 

 父・弘幸は「本人がサッカーをやりたいって結論を出したのはシュートですね。ゴールにシュートを打つのが楽しかったみたいです」と感じながら息子の姿を見つめていたという。

 

 サッカー経験者の父が築地SSSの父兄コーチ(のちに監督)に就任し、溝渕親子はサッカーにのめり込む。雄志は4年生になると増々、持ち前の身体能力に磨きがかかり、1つ上の学年の試合にも出場するようになる。県選抜に選ばれるまでに成長した。ただし、与えられたポジションはサイドバックではなかった。県選抜では足の速さを活かしてFWやサイドハーフで起用され、築地SSSではスイーパーだった。その後、クラブではボランチにコンバートされる。

 

小学生時代から抜群だった対人守備センス

 

160506たたずむ溝渕(加工済み) 現在のポジションとは違うものの、この頃から“溝渕雄志”のプレースタイルはすでに確立されていたようだ。雄志本人は「身体能力を活かしてがっついてボールを奪う。たまに後ろから抜いていってシュートを打って帰ってくるスタイルでした」と語ると、父・弘幸も「身体能力はずば抜けていました。一番の魅力は相手のボールを奪っているところですね」と話す。

 

 父は当時の息子のプレーの解説を続ける。

「相手がドリブルしてくるところを体をぶつけてボールを奪う。これが本当にうまかったですね。ゴールシーンよりも相手の攻撃の芽を摘んで、守りから攻撃に切り替えていく。こういうシーンを数多く見ましたね」

 

 

 雄志は小学生の頃から自分の特徴を存分に活かしたスタイルで1学年上のチームの心臓、攻守の切り替え役として活躍し、順調にサッカープレーヤーとして育っていった。そうなると気になるのが小学校卒業後の進路だ。「中学のサッカー部に入る人もいますが、県選抜の仲の良い奴らと“中学に進んだらどこに行く?”という話をしました。当時はクラブチームが強かったのでクラブチームに行こうかなと思っていて、FC DIAMOとシーガルFCジュニアユースというクラブがライバルみたいな感じでした。それで県選抜の仲間と“どっちに行く?”と話をしましたね」。選択肢は2つに絞られた。

 

 結局、雄志はDIAMOへの入団を決意する。理由はJリーグ・アビスパ福岡の下部組織での巡回指導コーチを務めていた犬飼敬三がコーチに就くという話があったからだ。「それで結構、県選抜がまとまってDIAMOに入ることになりました」と雄志。犬飼との出会いはよほど彼にとって大きかったのだろう。犬飼に対して、雄志は「この人が自分のサッカー観を1つ上のレベルに上げてくれた恩師です」と感謝の念を語る。

 

 小学生時代から県選抜に選ばれ、中学では強豪のDIAMOに入団した雄志だが、その歩みは必ずしも順風満帆ではなかった。本人曰く、「中学で挫折を経験した」という。サッカープレーヤーとしてエリート街道を走ってきた雄志が直面した挫折とは、いかなるものだったのか。

 

(第3回につづく)

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA<溝渕雄志(みぞぶち・ゆうし)プロフィール>

 1994年7月20日、香川県高松市出身。小学1年からサッカーを始める。築地SSS-FC DIAMO-流通経済大学付属柏高。流経大柏高の1年時に夏から本格的にサイドバックへコンバート。3年時には12年プレミアリーグEAST3位にチームを導く。慶應義塾大進学後は1年時からトップチームの試合に出場し始める。4年時には全日本大学選抜にも選出された期待の若手サイドバック。身長174センチ、体重68キロ。

(文・写真/大木雄貴)

 

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