13日に肝不全のため55歳の若さで死去した元日本ハム投手の工藤幹夫は、1982年10月9日、右手小指を骨折していたにもかかわらず前期優勝の西武とのプレーオフ第1戦に先発したことから、引退しても“奇襲の人”とのイメージが付いて回った。

 

 プレーオフ1カ月前のことだ。自宅ドアに右手小指をはさんで骨折。手には包帯、腕にはギプス。実はこれ、親分こと大沢啓二監督が指示した手の込んだ芝居だった。西武・広岡達朗監督が「スポーツマンシップの風上にも置けない」と激怒したのも無理からぬ話だ。

 

 工藤は7回途中まで投げ被安打3の無失点。まんまと西武を欺いたわけだから、さぞかし痛快だっただろう…。そう思い本人に訊ねたところ、渋い表情になった。今から3年前、場所は引退後に彼が経営していた秋田のスポーツ用品店。「実はまだ骨がくっついておらず、ドクターストップがかかっていた。案の定、ケガは悪化し、投手生命を縮めるはめになってしまいましたから…」。通算30勝のうち20勝は82年の1シーズンで稼いだものだ。

 

 こうした奇襲のツケ以上に彼が悔いていたのが、「マウンドを途中で降ろされた」ことである。「まだ1点も取られていないんですよ。ここまで引っ張っておきながら何で代えるのか。マウンド上で親分とケンカになったんです。ここで降りるのは嫌だと…」

 

 親分が工藤に代えてマウンドに送ったのは絶対的な守護神・江夏豊。広岡西武は江夏対策を練りに練っていた。江夏の足元を揺さぶるためプッシュバントを多用して塁を埋め、スクイズと見せかけて四球を選びとった。当事者の黒田正宏は語ったものだ。「僕はベンチを出る際、広岡さんに“監督、スクイズの構えをさせて下さい”と了解をとった。なぜなら南海で2年間バッテリーを組んだ経験から、アイツが瞬時の判断でスクイズをはずせることを知っとったからや」。8回裏、西武は一挙6点を奪い勝負を決めた。心肺面に不安を残す江夏を右へ左へと走らせた西武の江夏攻略策こそが奇襲だったと見ることもできる。

 

 この3日後にも工藤は先発し、7安打1失点で完投勝利を収めた。親分への反発をモチベーションに変えたのである。「余計なこと(芝居)やらなくてもねぇ…」。以上が奇襲秘話だ。体の線は細いが肝っ玉の据わった男だった。合掌。

 

<この原稿は16年5月18日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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