気のせいか、このところ首都圏でも赤いユニホームがやたらと目に付く。カープ女子だけではなく、カープおやじもカープおばちゃんもいる。四半世紀ぶりの優勝に向け、快進撃を続ける広島の勢いは市井からも伝わってくる。

 

 今でこそ広島といえば“赤ヘル”だが、1974年まで帽子の色は紺だった。これを赤に変えたのが75年に就任した外国人監督のジョー・ルーツである。この年、カープは球団創設26年目にして初のリーグ優勝をとげた。「赤は戦いの色。今季は闘争心を前面に出す」。ルーツの狙いがまんまと的中したのである。

 

 だが、紺の帽子を赤に変えるのは容易ではなかった。フロントは難色を示し、選手たちも反発した。当時の主力、衣笠祥雄は「ちんどん屋かと思った」と語っていた。

 

 そこまでの抵抗を押しのけて、なぜルーツは赤に変えたのか。あくまでも推測だが、当時メジャーリーグで圧倒的な存在感を発揮していたのが“ザ・ビッグレッドマシン”の異名をとったシンシナティ・レッズだ。

 

 スパーキーことジョージ・アンダーソンがレッズの監督に就任したのが70年。その年、102勝(60敗)をあげリーグ優勝を果たした。72年にもリーグ優勝、73年は地区優勝。そして75、76年には連続でワールドチャンピオンに輝く。72年から73年にかけてクリーブランド・インディアンスのコーチを務めていたルーツがレッズの強さの象徴である「燃える赤」(アンダーソン)を意識したことは想像に難くない。

 

 蛇足だが、なぜアンダーソンはスパーキーと呼ばれるようになったのか。選手としての実績はフィラデルフィア・フィリーズ時代の1シーズンに限られるが、激情家として有名で、納得がいかない判定に対しては血相を変えて審判に詰め寄った。

 

 激情家ならルーツも負けていない。シーズンが始まって間もない4月27日、審判の胸を小突いて退場。これが原因で電撃辞任に追い込まれる。ルーツは良薬ではなく劇薬だった。

 

 ユニホームに話を戻そう。75年のカープは帽子だけが赤でアンダーシャツやストッキングは、まだ紺のままだった。ルーツはそれこそレッズのような赤一色を望んだが、間に合わなかったようだ。赤に統一されるのは77年からだ。その意味で真田軍団ばりの“赤備え”はルーツの遺産であるとも言える。

 

<この原稿は16年7月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから