近藤貫太(慶應義塾大学ソッカー部/愛媛県今治市出身)第1回「異色の経歴を持つアタッカー」
慶應義塾大学ソッカー部に所属する近藤貫太(3年)は大学生にして既にJリーグを経験している。
<2016年8月の原稿を再掲載しています>
変わり種と言えば変わり種だ。だが、近藤からすれば至極当然なのかもしれない。大学進学、2年の前期でソッカー部を退部、プロ転向、慶應ソッカー部への復帰……。本人は人生の岐路に立つたびに自分の気持ちに正直に決断をしてきたのだろう。22歳の青年にしては多くの大事な決断をしてきた近藤が、人生の岐路に立つたびに何を思い、考えていたのか――。
近藤はスピードに特化したアタッカーで、愛媛FCユース1年目から既に2種登録され、トップチームの練習に参加していた。クラブ側からすれば彼をトップに昇格させたいと思うのは当然だ。サポーターも近藤を「愛媛の至宝」と呼び、活躍を期待していた。高校3年時にはU-18日本代表に選出された。しかし、彼が下した決断は大学への進学だった。
近藤はこの時の心情をこう振り返った。
「サッカーに対する自信はありました。ですが、勉強も大事だと思っていました。実際、親にも“勉強も大事だよ”と育てられた。僕自身も、そう思っていたので高校生の時はサッカーと勉強を両立していました」
文武両道を歩むため、近藤はJリーグではなく大学サッカーに身を置いた。慶應ソッカー部に入部した彼は1年時からレギュラーの座を掴む。順風満帆に思えたようで、彼には沸き上がる思いがあった。同年代の仲間たちは既にJのピッチでプレーしていたこともあって、近藤はより高いレベルを求め始めていた。そして近藤は2年時の夏にソッカー部を退部、大学も休学する。一念発起、プロの世界に飛び出すのだ。行き先は地元の愛媛だった。
しかし、帰ってきた“愛媛の至宝”は輝きを見せられなかった。2シーズンで24試合2得点。2015年11月にはクラブから契約満了を通達される。
進むべき道を示してくれていた恩師
そして近藤は慶應ソッカー部の須田芳正監督に相談し、慶應復学を選択する。この時のことを「本当に須田さんに感謝です」と近藤は神妙な面持ちで語り、こう続けた。
「部活を2年の前期で辞める時もいろいろ須田さんが話を聞いてくれて、最終的に僕の意見を尊重してくれた。そこでまた復帰するというのは、普通は無理だと思うんですけど……」
プロ契約満了から慶應ソッカー部へ復帰するまでの3カ月間にいろいろと振り返ることもあったと、近藤は言う。
「2年間、プロとしてがむしゃらに活動した。考える時間はありませんでした。でも終わってから“オレってあの時、こういう気持ちだったのかな”と考える時間があった。振り返ると、いつも須田さんは(自分の)進むべき道を示してくれていたのかなぁ。そういうのは後々になって感じるものなんですね、人生って」
紆余曲折を経て、近藤は再び大学サッカー界に足を踏み入れた。時に鋭く、時に柔らかな目つきで語る22歳。愛媛県今治市に生を受けた彼は、いかにして育ってきたのか……。
(第2回につづく)
1993年8月11日、愛媛県今治市出身。幼稚園の頃からサッカーを始める。今治市サッカースポーツ少年団イーグルス―愛媛FCジュニアユース―愛媛FCユース―慶応義塾大学―愛媛FC。高校1年時からトップチームに2種登録され、3年時にはU-18日本代表に選出された実績を持つ。強烈なシュート、鋭いドリブルが武器のアタッカー。164センチ、61キロ。
(文・写真/大木雄貴)