160805rio2 彼と会ったのは3年前の春である。ロンドン五輪に出場した陸上短距離選手。今ほどは過熱していなかったが、男子100メートル9秒台に近い男と目されていた。爽やかな好青年――。それが映像や記事など資料を集めていて山縣亮太(セイコーホールディングス)に抱いた印象だった。

 

 インタビュー前、レースに出場することを知り、現在は改修中の国立競技場へ向かった。この日は晴天に恵まれたものの、爆弾低気圧の影響により、強風が吹き荒れていた。走り高跳びのマットが宙に舞うなど、暴風と言ってもよかった。

 

 当時、慶應義塾大学体育会競走部に所属していた山縣は大学の対校戦に出場した。100メートル予選を走り、400メートルリレーのアンカーを務めた後、100メートル決勝に出てきた。100メートルの予選時には6メートルを超える向かい風を記録する。決勝になっても風は依然として強く、フィニッシュライン付近にいてもそれは肌に感じられるほどだった。

 

 山縣は期待通りトップでフィニッシュした。他を寄せ付けぬ走りで力の差を見せつけたかたちとなった。10秒47――。タイムだけを見れば平凡な記録と言えるかもしれない。だが、向かい風は4.0メートル。1メートルの向かい風で約0秒1遅くなるとも言われており、単純計算で10秒0台を出せたと見ることもできる。

 

 よどみのないフォームから滑らかな走り。それは期待していた通りのものだった。だが、その後の囲み取材を聞いていて想像とは違った部分が垣間見えた。礼儀正しく丁寧に答えてはいるものの、紡ぎ出す言葉の端々に彼の勝ち気さが滲んでいた。その思いは数週間後のインタビューでも変わらなかった。

 

 山縣は言った。

「100メートルという競技を明確にとらえられている。ただ漠然と走るのではなく、誰よりも考えている自信はあります」

「勝負すべきは常に自分。『タイムのことを考え過ぎるな』という人もいますが、僕は考えるべきだと思う」

 

 壁ではなく通過点

 

 人類が初めて100メートルを9秒台で走ったのは1968年とされている。それから50年近い歳月が経ち、多くの世界のスプリンターたちが“10秒の壁”を破ってきた。だが日本人が100メートルを公認記録の9秒台で走ったことはただ1度もいない。

 

160805rio4 かつて山縣は「自分が成長したいと思っている以上は9秒を出したい。出ると思っているし、そこに壁は感じてはいません。あくまでも自分の目的ではない」と語っていた。9秒台は“通過点に過ぎない”と言わんばかりである。

 

 インタビュー後、直感的に広島行きを決めた。エディオンスタジアムでのレースがあったからだ。国内有数の高速トラックとして知られ、彼も1年前に当時の自己ベストをマークしていた場所だった。何かが起きそうな気がした。100メートルで10秒を切る瞬間が見られるかもしれない。それは、ただの勘だった。

 

 事実、何かは起きた。9秒台ではなかった10秒01――。日本歴代2位の記録が掲示されると会場は大きくどよめいた。日本陸上界を揺るがした出来事だった。その気流を作ったのは、山縣ではなかった。予選で彼の1つ前の組を走った世間的にはまだ無名の高校生。その後の決勝で山縣はその丸刈りの高校生に敗れた。地元広島で数年ぶりに年下に敗れる屈辱を味わう。レース直後の彼は笑顔に自らの怒りを隠した。

 

「責任を負える選手になりたかったが、まだ自分がその器になかった」と唇を噛んだ。そこに山縣の強烈な自負が滲み出ていた。

 

 雌伏の時を経て、再び

 

 2013年の日本選手権で山縣は初優勝。日本一の称号を手にした。しかし、その後はケガに泣かされる日々が続く。彼のスピードに腰や脚が耐えきれなくなった。高性能のエンジンを積んでいても強固なボディが揃っていない。そんな印象すら覚えた。

 

 だが現在の山縣を見ると、逞しくなった。見た目からして筋肉量は増えた。柔道で五輪3連覇した野村忠宏やボクシングの元世界チャンピオン名城信男らを指導した仲田健トレーナーに出会い、学生時代は積極的じゃなかったフィジカルトレーニングにも力を入れた。

「以前よりスピードも生み出せるようになりましたし、スピードが上がっても身体への負担は少なくなっているのかなと思います」

 山縣は自らが持つエンジンに耐えうるボディを手に入れたのだ。

 

160805rio5 春にはロンドン五輪での自己ベストを0秒1更新する日本歴代5位の10秒06をマークした。向かい風では日本最高記録。完全復活、あるいは進化をアピールした。日本選手権ではケンブリッジ飛鳥(ドーム)に敗れ、自己記録では10秒01の桐生祥秀(東洋大)には及ばない。それでも大一番に強い山縣に期待する者は多い。

 

「オリンピックには魔物が棲んでいる」。これまで多くのアスリートが力を出し切れぬまま夢の舞台から去っている。ロンドン五輪に初出場した当時20歳の山縣は「走ることに対して、ものすごく責任を感じました。高校時代もチームの看板を背負っていましたけど、あの時ほど、強く意識したことはありません」と日の丸を背負うこと、五輪の舞台に立った重みを語っていた。

 

 それでも山縣は押し潰されることはなかった。

「自分が速くなることを求めていたわけですし、“この緊張感は自分の望んでいた世界へ入る代償だな”と。それに逃げたくなるようなプレッシャーを感じられることは、競技者として有難いことだと感じました。自分がそこまでの舞台に立ったという、ひとつの実感でもありましたから」

 

 あの時と比べて山縣の見える景色は変わったはずだ。大学も卒業し、社会人にもなった。選手団の中で置かれている立場も違うだろう。「リラックスして臨める部分あれば、ある意味では余計なプレッシャーを感じる部分もある」。もう怖いもの知らずではいられない。

 

 己との戦い――。これに打ち克つことで新たな扉が開けてくる。

「4年前は本番で自己ベストを出している。今振り返ってすごいなとも思うのですが、しっかり準備をしてやれれば、4年前を超えるのは別に目標ではないかなと思います」

 

 インタビューをしてからは3年と数カ月の時が経った。<日本陸上界の歴史を塗り替えるのは、山縣亮太だと私は信じて疑わない>。今もその想いは変わらない。リオデジャネイロの地で何かが起こる。今はただ号砲を待つだけだ。

 

(文・写真/杉浦泰介)