「二宮さんのような健常者は、私たち障がい者にとっては後輩にあたるんです」。パラリンピックの競泳で後に計5個の金メダルを獲得することになる全盲の河合純一から挨拶がわりにそう言われた時、私はその意味がわからなかった。老いれば、いずれ視力は落ちる。足腰が衰えれば、車いすの世話にだってなる。「つまり僕たち障がい者は、皆さんの未来の姿なんですよ」。私の頭の中にあったオリンピックとパラリンピックのボーダーが消えた瞬間だった。

 

 以来、ひとりでも多くのパラアスリートの肉声に触れようと努めてきた。

 

 プロ車いすテニスプレーヤーの国枝慎吾の言葉はズシンと胸に響いた。「僕自身、車いすに乗っているということで、よく“偉いね”って言われるんですけど、別に偉くも何ともない。(健常者の)皆さんが普通に楽しむように、ただ僕は車いすを使ったスポーツがしたかっただけなんです」。勇気をありがとう。感動をありがとう。パラリンピアンを取り巻く言葉の何と薄っぺらいことか。私たちは思考停止に陥ってはいなかったか。

 

 車いすバスケットボールのヘッドコーチ及川晋平は斯界きっての理論家として知られる。バスケ選手としての成功を夢見ていた高校時代、骨肉腫で右脚を切断して車いすバスケに転じた。今もガンが完治したわけではない。

 

「だから死に対する恐怖は常にあります。その恐怖から逃れるためにバスケに打ち込んできた。一生懸命やればやるほど恐怖を忘れられた。僕にとって車いすバスケは、生きる希望なんです」。車いすバスケはコートにいる5人の点数が14・0を超えてはいけない。障がいの重いローポインターと軽いハイポインターをどう組み合わせるか。「そのユニットの力で勝負する」。私たちが目指そうとしている共同参画社会の手本がコートの中にある。

 

 パラリンピックのルーツは1948年にロンドン郊外の病院で行われたアーチェリー大会とされる。古い歴史を誇るこの競技で日本人初の金メダルを狙うのがアテネの銅メダリスト平澤奈古だ。四肢に障がいを持つ彼女がアーチェリーを始めたのは24歳の時。それまでは「絵を描いたり本を読んだりするのが好きな」美大生で、スポーツにはまるで興味がなかった。

 

 それが、なぜアーチェリーに?「この競技ってデッサンの作業と似ているんです。フォームを修正するにしても形を目で追うところから始まる。競技に集中すると“的と私だけ”の関係になれる。だから私にとって試合はひとつの作品なんです」。指に障がいを持つ彼女は滑車を使って弓を引く。その作業の繰り返しが「私にとって最も心地のいい時間」なのだという。リオのアトリエからは、どんな作品が生み出されるのか。観賞する側の技量もまた、試されることになる。

 

<この原稿は16年9月9日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから