競技用車いすの開発や製造を手掛けるオーエックスエンジニアリング(千葉市)がリオパラリンピックでサポートする選手は、日本だけで10人を超える。代表的な選手としては男子シングルス3連覇を目指す車いすテニスの国枝慎吾や同競技で女子初Vを狙う上地結衣、そして車いすマラソンロンドン大会4位の副島正純らがあげられよう。

 

 同社とパラリンピックの関係は20年前に遡る。96年のアトランタ大会に初めて自社製機種で挑戦、陸上の畝康弘と荒井のり子が金メダルを獲得した。これまでパラリンピックで海外の選手を含め、106個のメダルに貢献している。

 

 より速く、より強く、より軽快に――。同社には今も創業者・石井重行の理念が息づいている。

 

 初めて石井と会ったのは12年5月。車いすに乗って現れた石井は、こちらの顔を見るなり「オレ、ガンなんだ。昨年11月に肝臓でこんなにでかいのが見つかっちゃって…」と言った。眼光の鋭さが印象に残った。

 

 バイク好きが高じてヤマハ発動機に入社した。退社後、都内でオートバイの販売店を経営していた石井に災厄が降りかかる。新車の二輪を試走中に転倒し、脊髄損傷の大ケガを負った。

 

 石井は言った。「人生で一番のショック。35歳で、“さぁ、これから”という時に大好きな仕事ができなくなってしまったんだから…」。慣れない車いす生活。本人の言葉を借りれば「どれもこれも病人臭いものばかり」。根が技術屋である。眠っていた血が再び騒ぎ始めた。「乗る人の身にもなってみろよ。だったらオレがつくってやる」

 

 石井の生きざまに接しているうちに、ある人物が浮かんだ。ホンダの創業者・本田宗一郎である。「町工場のオヤジ」から「世界のホンダ」へ。本田におけるF1が石井にとってのパラリンピックではなかったか。

 

 そのことを確かめたくて長男で現社長の勝之に問うたことがある。「父はヤマハという会社自体は大好きでした。しかし、出てくるのは、いつも本田宗一郎の話ばかり」。そして続けた。「突飛に見える発想を、時間をかけて具現化していく。自分の父でありながら、あれほどユニークな人はいなかった」。4年前の大晦日、石井は64年の生涯を閉じた。石井なくして日本のパラスポーツの発展はありえなかった。

 

<この原稿は16年9月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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