リオパラリンピックの閉会式での東京のプレゼンテーションビデオに、1964年東京大会の映像を用いたのはヒットだった。まだモノクロである。そこに登場したのは日本唯一の金メダリストとなった卓球ダブルスの渡部藤男と猪狩靖典。静寂を破るように彼らの言葉が紹介される。「外国人選手が仕事を持ち買い物に行き、お酒を楽しむ様子に衝撃を受けました。彼らは普通じゃないか!」

 

 52年前のパラリンピックで選手団長を務めたのが大分生まれの医師・中村裕である。“パラリンピックの父”と呼ばれるルートヴィヒ・グットマンに師事した中村は、国内においては誰よりも障がい者スポーツの重要性を認識していた。東京五輪後にパラリンピックを開催しようと訴え、奔走したのも中村である。

 

 しかし、中村の前には偏見という名の壁が立ちはだかった。「障がい者をさらし者にして、それでも医者か!」。この頃、障がい者は、すなわち「患者」であり、行政的には保護の対象でしかなかった。それゆえ障がい者には仕事はもちろん、結婚することさえはばかられる風潮があった。飲酒に至ってはご法度である。

 

 それでも中村には揺るぎない信念があった。「No Charity,but A Chance!」(保護より働く機会を)の理念の下、1965年には身障者の授産施設として、生まれ故郷の別府市に「太陽の家」を創設。リオにはボッチャの木谷隆行が出場し、団体銀メダル獲得に貢献した。

 

 現在、パラアスリートが置かれている環境は52年前とは比較にならない。パラリンピックに出場した多くの選手が、いろいろなかたちで企業から支援を受けている。

 

 そんな中、自転車のタンデムで銀メダルを獲った鹿沼由理恵のように「苦労を知らずに競技をできるようになった」環境に感謝しつつも、「昔はフルタイムで働き、睡眠時間を減らしてまで練習していた。そこまでしても“勝ちたい”という気持ちが私の原点」と口にする選手も現れ始めた。

 

 今回、日本は前回のロンドンを8つ上回る計24個のメダルを獲得した。車いすラグビーとボッチャは競技史上、初めてのメダルとなった。その一方で「10個」を目標に掲げていた金メダルは初参加の64年東京大会以降、初めてゼロに終わった。オリンピック同様、“金本位制”で格付けする国・地域別メダルランキングは64位である。

 

 さて、この数字をどう受け止めるべきか。ひとつ言えるとしたら、先の鹿沼の銀メダル獲得に健常者のパイロットの献身があったように、パラリンピアンの活躍には、いろいろな面で健常者のアシストやサポートが欠かせない。すなわち紐帯の強化こそが、4年後に向けての最大の課題となろう。パラリンピックの成功なくして東京の成功はありえない。


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