二宮: 1964年東京オリンピック・パラリンピックは、高度成長期の真っただ中でした。伸び行く東京、発展する日本のシンボルとして、「成長」をアピールしました。現在、日本は超高齢社会となり、2020年東京オリンピック・パラリンピックのキーワードは「成熟」ではないでしょうか。超高齢社会を見据えた場合に、障がい者との親和性、共生社会をどう実現するかがテーマになってくる。星野さんはティーボールの普及にも尽力されているとお聞きしました。これはどういったきっかけが、あったんでしょうか?

 

星野: 現役時代から名古屋の養護施設などを時々、訪問していたんです。そのこともあって、現役を辞めて、岡山に帰った時に、「施設の慰問に行かないか」と誘われたことがあったんです。引退したばかりですから、子どもたちも僕のことを知っていてくれているんですよね。そこで車いすに乗った子たちから歓迎を受けた時に"この子たちに野球を教えたい。車いすでもできないかなぁ"と考えたんです。そこで思いついたのがティーボールだったんです。ティーボールの攻撃はボールをティーに置いて、打つことができますよね。守りに関してはグローブの代わりに網でボールを捕ることで可能になる。障がいのある子たちが参加できるようなルールづくりから始まったんですよ。

 

二宮: なるほど。まさに一から始めたわけですね。

星野: 僕もコーチングをしたんですが、なかなかバットに当たらない。そこから練習をし、ボールに当てることができた時の彼らの笑顔が忘れられません。感情がブワッと出てくるんです。それまであまり感情を表に出さなかった子どもが「ウワーッ! 当たったァ」と喜ぶのを見て、僕はとても嬉しくなりました。「これをもっとやりましょう」と関係者と話したんです。施設の屋上に練習場を作り、最初は自分たちだけでやっていたんですよ。それが高松の養護施設でもやるようになり、試合をするようになった。そのうち勝った負けたが出てくる。僕は子どもたちに言うんですよ。「『いい試合をした』ではダメだよ。勝ちを意識しような」と。

 

伊藤: 勝ちにこだわることを追求したんですね。

星野: それで負けたら、もう1回、みんなで練習しようと始めたわけですよ。試合に負けると、子どもたちは目に涙を浮かべているわけですよ。その姿を見て、"やっていることは間違っていない"と。試合に勝った時は「監督、勝ったよ」と、手を伸ばして喜んでくるんですよ。これが本当にうれしくてね。

 

伊藤: それが広がって、星野仙一杯争奪西日本肢体不自由児ティーボール交歓大会の開催につながるわけですね。

二宮: 中国・四国地方ではかなり盛んになってきているそうですね。「継続は力なり」と言いますが、ティーボールに親しむ障がい者の方が増えてきている。これはとても大きな成果だと思います。

星野: 僕も大会がちょうど秋季練習と重なった時は、チームをコーチに任せて観に行ったこともありました(笑)。会場で、彼らの必死さに触れて、僕は心を打たれましたね。

 

 "楽しめばいい"ではダメ

 

伊藤: 星野さんの勝ちにこだわる思いが、子どもたちにもすごく浸透しているそうですね。"(星野)監督が来てくれたら、勝たなきゃ"と発奮する。それまでは、障がいのある子どもたちにそういった姿勢は多くなかったと、伺いました。関係者の方からは「とても教育的にいい」という声も聞こえてきたそうです。

星野: 僕はやればいい、楽しめばいいではダメだと思う。それではひとつのレベルを超えられない。だから"勝ちにこだわれよ"と。もちろん勝つばかりじゃないですし、負けることもある。それでも勝ちにこだわっていたからこそ、なぜ負けたのかを考える。「もっと練習しよう」「もっとひとつになろう」と、そこから学べるということで、「勝ちにこだわれ」と言い続けてきましたね。

 

二宮: これは我々、メディアの側にも責任があるのかもしれません。パラリンピアンや障がい者スポーツの選手と話をしますとね。「今までは自分たちの記事が社会面で扱われていた」と。「感動をありがとう」と同情されているような印象があった。「もっとスポーツ面で扱ってほしい」「勝った負けたとか、どういうプレーをしたかを取り上げてもらいたい」。そういった意見を聞くたびに、同じスポーツであるにもかかわらず、「感動をありがとう」というのは、彼らからすれば不本意なことなんだろうな、と。星野さんがおっしゃったように勝ちたいのは、誰でも根源的な欲求としてあるわけですからね。星野さんの「勝ちにこだわれ」という気持ちは彼らもうれしいんじゃないかなと思うんですよね。

星野: たとえば勝てない年だってある。岡山の施設に僕が行くと、「監督、ごめんなさい。来年は頑張ります」と言って、チームのキャプテンが謝りに来るんですよ。それに対して、僕は「よし、練習しような」と励ますんです。

 

二宮: 星野さんの話を伺っていて、日本の障がい者スポーツの父と言える中村裕先生の言葉を思い出しました。大分の車いすマラソンの土台をつくった方です。昔、車いすの選手たちが2人並んでゴールをしようとしたら、「ダメだ。ちゃんと勝負をはっきりさせろ」と言ったそうです。

星野: それは素晴らしいことですね。「みんな仲良く手をつないでいこう」ではダメ。そこで白黒付けなきゃいけないと思います。やはり1位、2位とか、金、銀を決めるべき。それが選手の成長にもつながると思いますね。

 

(第3回につづく)

 

星野仙一(ほしの・せんいち)プロフィール>

1947年1月22日、岡山県生まれ。倉敷商から明大を経て68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。74年に沢村賞を獲得。82年に引退するまで通算500試合に登板し146勝121敗34セーブをあげた。87年には中日ドラゴンズの監督に就任し、88、99年とリーグ優勝に導く。2002年から阪神タイガースの監督となり、03年に優勝。同年限りで勇退し、シニアディレクターとして阪神タイガースのフロント入り。北京五輪日本代表監督を務めたのち、11年から東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した。13年には球団創設初のリーグ優勝、日本一に導いた。14年より東北楽天ゴールデンイーグルスのシニアアドバイザーを務める。


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