視覚障害をもつスイマーにとって、欠かせないのがタッパーとの呼吸だ。タッパーとは、釣竿など棒状のものの先にウレタン製のボール状のものをつけたタッピング棒で、選手の頭部や背中を叩いてターンのタイミングやゴールを合図する人のこと。つまり、ブラインドスイマーにとっては"眼"となる存在である。パラリンピックともなれば、0.01秒の差が命取りになる。アテネ、北京とパラリンピック競泳日本代表のコーチを務め、これまで3名のメダリストを育てた寺西真人は、スイマーとタッパーとのつながりを「一心同体」と語る。コーチとして、タッパーとして、日本人選手を世界のトップに押し上げた寺西に、二宮清純が"ブラインドスイミング"の世界におけるタッパーの極意と存在意義について訊いた。

 

二宮: 寺西さんは、5大会連続でパラリンピックに出場し、21個(金5、銀9、銅7)のメダルを獲得した河合純一選手の育ての親です。視覚障害者に水泳を指導するようになったきっかけは?

寺西: 「空きが出たから」ということでお誘いを受けて、今務めている筑波大学附属視覚特別支援学校に非常勤講師として来たことがきっかけでした。実はそれまで障害者に関わったことが全くなかったんです。だから視覚障害のある子どもたちが、いきいきとスポーツを楽しんでいる姿を見て、カルチャーショックを受けました。

 

二宮: 学校にはもともと水泳部があったのですか?

寺西: 当時は、バレーボール部と陸上部しかありませんでした。それで、僕が水泳部をつくったんです。陸上部とバレーボール部の先生と生徒を見ていたら、「自分もああいう居場所が欲しいな」と思ったんです。それで私自身も高校まで水泳部でしたし、それなら自分にも指導できるかなと。その頃は、「パラリンピックのメダリストを育てよう」なんてことは全く思っていませんでした。単純に泳ぐ楽しさを知ってもらおうと始めたんです。

 

二宮: 実際にやってみて、いかがでしたか?

寺西: 視覚障害者の練習を受け入れてくれる施設を探したり、その施設に生徒たちを連れて行くのは大変でしたけど、いざプールに行ってしまえば、それほど苦労は感じませんでした。というのも、プールにはコースロープが張ってありますし、壁にさえ気をつければ、水中でケガをすることはそうはありませんからね。ビート板を持って泳げば、壁に頭をぶつけることもありません。「これは視覚障害者には、もってこいの競技だな」と思いました。

 

3年目に訪れた指導者としての転機

 

二宮: 河合選手との出会いは、いつでしょう?

寺西: 僕が学校に勤めて3年目に彼が入学してきたんです。えらく、やんちゃな少年でしたね(笑)。ただ、水泳に関しては飛び抜けていました。中学の途中までは視力もあって、健常者として泳いでいましたから、技術はしっかりしていたんです。視力があった時の記憶がありますから、空間認知もありましたし、ターンも教えなくてもできていました。

 

二宮: 河合選手の泳ぎを見て、将来性を感じたわけですね。

寺西: はい。彼自身、「オリンピックに出たい」なんて言っていましたから。とにかく、タイムを縮めることにこだわりをもっていました。ですから、私自身もきちんと勉強して、少しでも速く泳げるようにしてあげたいなと思ったんです。私が指導者として真剣に水泳に取り組むようになったのは、彼との出会いがきっかけです。

 

二宮: 河合選手は当時から国内ではトップだったんでしょうか?

寺西: 人数が少なかったというのもありますが、ライバルはいませんでしたね。どんな大会に出ても、いつも優勝していたんです。それで「じゃあ、もう世界しかないな」と。

 

二宮: 目標はパラリンピックだと?

寺西: 正直、その頃はパラリンピックがどういうものなのか、私自身、よくわかっていませんでした。河合が初めて出場したのが1992年のバルセロナ大会でしたが、その時は出場することを聞いても「あ、そうなんだ。気を付けて行ってらっしゃい」なんていう感じだったんです。本気になってメダルを狙ったのは、アトランタ大会からでした。

 

(第2回につづく)

 

<寺西真人(てらにし・まさと)プロフィール>

1959年7月26日、東京生まれ。筑波大学附属視覚特別支援学校教諭。日本身体障害水泳連盟競泳技術委員。大学卒業後、母校の体育非常勤講師、筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の非常勤講師を経て、1989年同校教諭となる。自ら水泳部を立ち上げ、河合純一、酒井喜和、秋山里奈の3人のパラリンピックメダリストを育てた。


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