2010年バンクーバーパラリンピック、日本アイスホッケー界の歴史が大きく変わった。長野大会以来、出場4回目にして初めて決勝ラウンドに進出したアイススレッジホッケー日本代表が、準決勝で地元カナダを破り、決勝進出を果たしたのだ。世界屈指の強豪国を相手に、しかも完全アウェー状態の中での大金星。決勝では米国に敗れたが、同大会最少失点での惜敗。銀メダルは見事の一語に尽きた。15人の選手たちを男にしたのが、指揮官を務めた中北浩仁だ。バンクーバーの快挙から2年が経ち、金メダルを狙うソチ大会まで2年と迫った今、日本代表の現状は――。二宮清純が中北にロングインタビューを敢行した。

 

二宮: 2年前のバンクーバーパラリンピックでの銀メダルは、まさに快挙でした。実際、当時の日本の実力はどう見ていたのでしょうか?

中北: 正直言えば、当時の日本は、メダルに届けばいいかなというくらいの実力だったと思います。米国、カナダにはかなわないところがありましたから、ノルウェーに勝って、3位に入ればいいなと。

 

二宮: それが地元のカナダに勝って、決勝に進出するんですからね。当時の日本には実力以上の勢いがありましたよね。

中北: カナダには私が監督に就任して以来、一度も勝ったことがなかったんです。ですから、準決勝では「この試合だけは絶対に勝ちたい」と思っていました。そこで選手たちには「カナダには1000回やっても、999回は負けるだろう。勝率は1000分の1。明日こそ、その1000分の1の試合にしようや」と言ったんです。そしたら選手たちのモチベーションも上がりまして、「よし、明日は何としてでも勝とう!」となったんです。

 

 逆手にとったホスト国のプレッシャー

 

二宮: しかし、カナダはホスト国でしたから、会場も完全アウェー状態。厳しい戦いだったのでは?

中北: そうですね。ただ、そこを逆手にとったんです。地元からの応援があるわけですから、カナダは絶対に勝たなければいけないというプレッシャーがあったはずです。しかも、オリンピックの男女と含めて、地元開催でのトリプル金を狙っていて、実際、オリンピックでは男女が金メダルを獲っていたんです。ですから、「次はオマエらの番だよ」という空気があった。このプレッシャーは相当大きくのしかかっていたと思いますよ。

 

二宮: 実力的にも、これまで一度も負けたことのない日本が相手でしたから、「勝って当たり前」と思われていたでしょうしね。

中北: そうなんです。試合は第1ピリオドで0-1とリードされたのですが、第2ピリオドで同点に追いつきました。しかも、戻ってきた選手たちが「向こうは、結構バテている」と言うんですよ。「これはいけるな」と思いましたね。

 

二宮: 日本はチャレンジャーの身ですから、たとえ負けても失うものはありません。しかし、カナダにしてみれば、焦りが生じたでしょうね。スコア上では同点だったとはいえ、この時点で精神的には日本に分があったわけですね。

中北: はい、その通りです。カナダは最後にオウンゴールという信じられないミスまで犯しました。勝負というのは、実力だけでは推し量れないものだと、改めて感じさせられた試合でしたね。

 

 なでしこにも見た勝ちパターン

 

二宮: バンクーバーで銀メダルを獲ったことで、得たものとは?

中北: 勝ち方というのが確信できましたね。バンクーバーではグループリーグで1戦目、2戦目、4戦目をとって、決勝ラウンドに進出するという計算をたてていたんです。実際にその通りになりました。

 

二宮: 3戦目は落としてもいいと?

中北: はい、そうです。1、2戦目を取って、予選2位以上が確定し、決勝ラウンド進出が決定しました。そこで、選手たちは一度、気持ちが切れたんです。3戦目の米国戦は0-6の完敗でした。しかし、それでカナダが油断したと思うんですね。

 

二宮: 予選リーグと決勝トーナメントでは、それぞれ勝ち方が違うんですよね。指揮官はそこを理解していなければならない。昨年、女子サッカードイツW杯で初優勝したなでしこジャパンも予選リーグで最初の2試合を取って、決勝トーナメント進出を決めてから、第3戦のイングランド戦で負けているんです。つまり、できればギリギリではなく、余裕をもって勝ち上がることが大事なんでしょうね。

中北: なでしこジャパンはまさにバンクーバーでの自分たちでしたね。違いは決勝で米国に勝ったか負けたか(笑)。ただ、準決勝までは同じような勝ち上がり方をしていたので、自分たちと重ねながら応援していました。次のソチでは、なでしこジャパンのように金メダルを獲りたいですね。

 

(第2回につづく)

 

中北浩仁(なかきた・こうじん)プロフィール>

1963年9月28日、香川県生まれ。6歳でアイスホッケーを始め、中学ではアイスホッケー部に所属。中学3年時には西日本選抜チームに選出され、全国大会に出場した。卒業後はアイスホッケーの本場であるカナダの高校、米国の大学へと留学した。プロを目指していたが、大学4年時に右ヒザ靭帯を断裂し、選手生命を絶たれた。大学卒業後は帰国し、日立製作所に就職。2002年よりアイススレッジホッケー日本代表監督を務め、06年トリノ大会では5位、10年バンクーバー大会では銀メダル獲得に導いた。

日本アイススレッジホッケー協会 http://www.sledgejapan.org/


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