二宮: 中北さんは2002年からアイススレッジホッケー日本代表の監督を務めていますが、指導するうえで一番苦労した点は?

中北: 選手たちのことを理解するということですね。それをせずに失敗したのが、トリノ大会だったんです。

 

二宮: 選手たちはそれぞれ障害の程度も内容も違うでしょうからね。

中北: そうなんです。それを全く理解しようとせず、とにかく技術的な指導しかしなかった。その結果、予選を通過することができず、5位に終わったんです。

 

二宮: 具体的に教訓となった出来事はありますか?

中北: もうかなり前になりますが、選手が自宅のドアサッシでお尻を切ってしまったんです。もちろん私も知らなかったですし、本人も「大丈夫だろう」と思っていたんでしょうね。その傷をそのままにしていたんです。そしたら膿んでしまって、菌が内臓にまでいってしまいました。結局、期待していたその選手はスレッジに乗れなくなってしまい、選手生命が絶たれてしまいました。

 

二宮: 選手本人が気づかないところまで、気を配るというのは大変でしょう?

中北: そうですね。しかし、この競技の監督を引き受けた以上、そうした細かいところまでケアをしなければいけないということを痛感させられました。そこで、バンクーバーに向けては、身体の部分についても、気持ちの面においても、きちんと選手を理解していこうと。今、チームには専属のドクターが2人いて、絶えず選手の健康をチェックしています。それをフィードバックして、選手の状態を把握しながら指導しているんです。

 

 「常識=非常識」から始まった指導

 

二宮: 技術的にもアイススレッジは、中北さんがやってきたアイスホッケーとは似て非なるスポーツです。参考にはできても、指導は難しかったのでは?

中北: そうなんです。僕の持っている知識はアイスホッケーの常識であって、アイススレッジのそれとはまた違っていたんです。例えば、味方の選手に45度にパスをするというのは、ホッケーでは基本中の基本なんです。ところが、彼らにはそうした常識さえも通じなかった。ですから、なぜ45度にパスを出すことが必要なのかをこんこんと説明したんです。ところが、今度は理解はしても、それが容易にできない。「なんでこんな基本もできないんだろうか」と不思議に思いましたよ。しかし、アイススレッジはスレッジに乗ったうえで、両手にスティックを持っているわけで、単に45度にパスなんて言っても、自分のスレッジなどに当たって跳ね返ってきちゃうんですよね。アイススレッジ未経験の私には、そうした彼らの難しさがわからなかったんです。つまり、「私の常識」=「選手の非常識」であり、「選手の常識」=「私の非常識」でした。これが完全に「私の常識」=「選手の常識」となった時こそ、金メダルを獲る時だろうと思いましたね。

 

二宮: まだ中北さんと選手の「常識」が100%重なったわけではないにしても、バンクーバーでの銀メダルは、そうしたトリノでの経験がいかされた結果だったと。

中北: そうですね。トリノで失敗して学んだことが大きかったですね。とにかくそれまでの自分の常識を捨てて、選手たちのことを本気で理解することに努めました。

 

(第3回につづく)

 

中北浩仁(なかきた・こうじん)プロフィール>

1963年9月28日、香川県生まれ。6歳でアイスホッケーを始め、中学ではアイスホッケー部に所属。中学3年時には西日本選抜チームに選出され、全国大会に出場した。卒業後はアイスホッケーの本場であるカナダの高校、米国の大学へと留学した。プロを目指していたが、大学4年時に右ヒザ靭帯を断裂し、選手生命を絶たれた。大学卒業後は帰国し、日立製作所に就職。2002年よりアイススレッジホッケー日本代表監督を務め、06年トリノ大会では5位、10年バンクーバー大会では銀メダル獲得に導いた。

日本アイススレッジホッケー協会 http://www.sledgejapan.org/


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