鈴木誠也の「過剰と時間」
その言葉が発せられたのは、昨年12月14日のことである。別に現場にいたわけではないが、記事を読んだときの、いわば得体のしれない衝撃は、いまだに体の奥のほうに残っている。
「打率10割、200本塁打、1000打点」
ん? 何の数字だろうと、まずは戸惑う。
誰かの10年間の通算成績かな。でも、10割というのは……。
よく読んでみると、声の主は鈴木誠也(広島)だった。契約更改後の記者会見で、来季の目標として、掲げたという。
読むほどに、次第に戸惑いが快感に変わってくる。
彼は、もしかして本気なのではないか。
いや、もちろん、1シーズンで10割も、200本塁打も、1000打点も、実際にはありえない。そんなことは、本人も重々承知しているだろう。それでも、ある種の本気を伴って、この数字を言う衝動を持っているとしたら、その過剰性は注目に値する。
会見では、こうも言ったそうだ。
「今年1軍に上がってきて、1打席目で凡退した時点で満足していない」(「日刊スポーツ」12月15日付)
つまり「10割」というのは、その場の思いつきではないのだ。彼は、どこかでその数字を抱えこんで生きている。
事態は、翌15日に行われた新井貴浩(広島)の契約更改会見と比べるとよくわかる。新井は、「11割、201本塁打、1001打点、鈴木サンに負けないように」と、目標を語った。これは、明確に鈴木をネタにした冗談である。その場で笑いをとろうとしたわけだ。その地点からふり返ってみると、鈴木の言葉には“非現実な本気”が宿っていることが理解できるだろう。
大ブレークの予兆
鈴木は、去年のオリックス戦で2戦連続サヨナラを含む3戦連続決勝ホームランを放ち、緒方孝市監督から「神ってる」と評されて以来、一気にスターダムにかけ昇った。
東京都荒川区町屋に生まれ、父親が自宅倉庫を改造して打撃練習場を作り、特製の細い鉄バットでゴルフボールを打つ練習をした。それがかのテレビ番組「出没! アド街ック天国」に平成の『巨人の星』親子として紹介されるなど、すでにその半生の伝説も有名になった。
一流、あるいは超一流選手には、化ける時期があるものだ。
鈴木の場合ははっきりしている。2015年のオフから2016年の開幕にかけてである。2015年のシーズンは2年目の野間峻祥、7年目の堂林翔太と、ほぼ横並びくらいに見えた。3人ともに期待の若手野手だけれども、いずれも決定打に欠ける、レギュラー一歩手前の選手。
ところが、2016年春の時点では、体つきからして、他の2人を圧倒していた。残念ながらキャンプ終盤に故障して開幕に間に合わず、一軍昇格は4月5日になったけれども、その時点で体力もスイングの力も、図抜けていたのだ。とても、2015年シーズンと同じ選手とは思えなかった。
では何が鈴木を化けさせたのか。もちろん、少年時代からの練習のたまものでもあるだろう。持って生まれた素質もあったに違いない。よく言われる、福岡ソフトバンク内川聖一の自主トレに志願して参加したことも、大きかっただろう。
「今」を特別視する感覚
ここでは、そういう技術、体力とは別の面に注目してみたい。
「Number」誌2016年10月6日号に、秀逸な鈴木論が掲載された。
「鈴木誠也が“神る”まで。」という村瀬秀信さんのレポートである。その中に、こんな一節がある。
<誠也は1打席の凡退に尋常ではない悔しがり方をした。1年目でも二軍戦でも関係ない。「俺には時間がない」「1打席1打席が勝負」>
自分の人生に対して、自分には「時間がない」という捉え方をしている。これが核心である。
「時間がない」からには、急がねばならない。当然、1打席も無駄にはできない、1打席1打席が勝負、ということになる。自分の時間に対するこのとらえ方を、よりはっきりいってしまえば、人生は短い、ということだ。すべては短い。だから、今。
端的に、そして過剰に「今」を特別視するこの感覚は、おそらく「10割、200本、1000打点」発言と、まっすぐにつながっている。そして、この感覚を本気で持てたからこそ、彼に「化ける」時間が訪れたのだ。
ここまでくると、この時間論の果てにある言葉にもふれておきたくなる。
『平家物語』巻第十一「内侍所都入」冒頭の有名な一句である。
もはや平家一門の滅亡を悟った新中納言知盛は言う。
「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」(『平家物語』日本古典文学大系 岩波書店)
この名台詞を、林望先生はこう訳しておられる。
「見届けるべきことは、みな見届けた。今は自害しようぞ」(『謹訳 平家物語[四]』祥伝社)
ちなみに林先生の「謹訳シリーズ」は、何度読んでも本当に素晴らしい名訳だと思います。で、もちろんこれが、妥当な解釈である。
前田智徳に似た振る舞い
ところで、武士道など日本倫理思想史研究の泰斗・相良亨先生が、この言葉についてこんなことをおっしゃっている。
<知盛の心境をどう読めばいいのか、一つには「この世での仕事は終わった。今度は来世だ」とみる説があります。しかし、ぼくはそうはとらない。「やるべきことはやった。これでおしまい!」と解釈する。つまり、この世で全力投球したのだから、来世なんぞは考えずに、ここで完結していいのだ――と見るわけです>(『相良亨の思い出』私家版)
好きなんだなあ、この解釈が。
だけど、考えてみると、「これでおしまい」と言い切る人生観というのは、かなり恐いものではなかろうか。だって、あの世も天国も地獄も極楽もないのだから、「死」は端的に「おしまい」を意味する。あの世にいったら誰かがほめてくれる、なんてことはない。
つまり、「これでおしまい」に見合うのは、唯一、「この世で全力投球」だけである。とすれば、この「今」を逃さずに、全力投球するしかないだろう。
そう。回りくどくなってしまったが、鈴木の過剰に「今」を特別視する感覚には、その至り着く先に「見るべき程の事は見つ」という境地があるはずなのだ。そうなってようやく、現実との釣り合いがとれる。
よく指摘されることだが、こういう感覚は、かの前田智徳の振る舞いを思い出させる。前田の場合は、周知の通り、大きな怪我がその生き方をはばんだ。
鈴木のスイングに、前田ほどの美はない(少なくとも今のところは)。ただ、こんな記事を見つけた。
<(鈴木が言うには)「体が変わっている。1日1日どう変われるか。今は今の振りやすい打ち方で振っています。戻そうと思っても、戻るものではない」と日々の新たな感覚を頼りにフォームの再構築を目指す>(「日刊スポーツ」2016年12月25日付)
ここでも、「今」「1日」という時間のとらえ方は顕著だ。そして、もしかしたら、彼はまさに今、さらに化けている最中かもしれない。
「俺には時間がない」というのは、ひとつの生き方である。近い将来、というよりも今季と言うべきだろうが、それが、「見るべき程の事は見つ」というほどのスイングに結実するか否か、見届けたいと思う。
上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。