1703miyahara9 1999年1月8日、国立競技場。第77回全国高校サッカー選手権決勝は、大雪になった1年前とは打って変わって晴天に恵まれていた。前年と同じ東福岡と帝京のカード。東福岡が3-2とリードした試合終盤、東福岡MF宮原裕司は美しく、そして残酷なループシュートを放った。東福岡の勝利を決定付ける4点目。それは高校選手権連覇を大きく手繰り寄せた一撃だった。

 

「パスを受ける前に僕は“決まった”と思っていました」。味方からボールを受け取った宮原は流れるようにターンをすると、右足を振り抜いた。ゴールまで約30mの距離から放たれたシュートは高い位置にポジションを取っていたゴールキーパーの頭上を越えて、ネットを揺らした。

 

 当時、私は都立高校のサッカー部員としてスタンドから試合を見つめていた。16歳の私にとってハットトリックを達成した東福岡のストライカーより、のちに日本代表に選出された帝京の1年生ドリブラーよりも、記憶に刻まれたのが東福岡の背番号10だった。スラリとした長身の宮原は左膝に大きなテーピングを巻いていた。国立でのプレーは、そのケガを感じさせないほど優雅で華麗に攻撃のタクトを振るっていた。

 

 あれから18年もの歳月を経た。“赤い彗星”の異名を取った東福岡で、司令塔として活躍した宮原は36歳になっていた。Jリーグクラブを転々とし、2010年にユニフォームを脱いだ。現在は現役最後に所属したJ2リーグ・アビスパ福岡で下部組織の指導者として、今もサッカーに携わっている。今年2月中旬、上空を旅客機が飛び交う福岡フットボールセンターに、その姿はあった。

 

 宮原は昨年12月にS級ライセンスを取得した。正式名称は日本サッカー協会(JFA)公認S級コーチライセンス。JFAが認める最高位の指導者資格であり、これを手にすればJリーグのクラブ及び日本代表の監督を務めることができる。「40歳までにJの監督になる」。彼が引退後に立てた目標に近付いたのだ。

 

 俯瞰する生粋のパサータイプ

 

 平日は陽が沈んだ頃にグラウンドに出てトレーニングを開始する。U-15監督の宮原が指導を担当するのは中学生だ。「一緒にプレーもしますし、選手との距離は近いと思っています」と宮原。ジャージ姿でボールを蹴り、身体を動かす。練習の準備を自らが行うこともある。身振り手振りを交えて大きな声で選手たちに指示を送る姿は、司令塔としてピッチに君臨していた現役時代とダブって見えた。

 

 天才――。サッカーに限らず、スポーツ界でも度々目にする常套句である。彼もまたそう呼ばれた選手の1人だった。「僕の頭の中は常にゴールから逆算をしていた」。イマジネーション溢れるプレーは、ゴールという目的のための手段に過ぎない。目的を遂行するための自らの役割がパスという選択肢だった。

 

 宮原はプロで名古屋グランパスエイト、アビスパ福岡、サガン鳥栖、セレッソ大阪、愛媛FCの5クラブに11年在籍した。200試合を超える公式戦に出場し、通算8得点。その数字からもわかるように点を獲るタイプのプレーヤーではなかった。「昔から“誰かに決めてもらう”と考えていました」。生粋のパサーである宮原は、4歳上の兄の影響で物心がついた時からサッカーを始めた。俯瞰的に物事を見ることが多かった彼は、当時から自らが生きる道を見出していた。

 

(第2回につづく)

 

1703miyaharaPF2宮原裕司(みやはら・ゆうじ)プロフィール

1980年7月19日、福岡県生まれ。4歳でサッカーを始める。二島中学では3年時に全国中学校体育大会準優勝を経験した。東福岡高に入学し、2年時には主力としてインターハイ、全日本ユース選手権、全国高校選手権の3冠達成に貢献。3年時にも高校選手権連覇に導いた。99年、名古屋グランパスエイトに加入。アビスパ福岡、サガン鳥栖、セレッソ大阪、愛媛FCとJ1・J2のクラブを渡り歩いた。10年に現役を引退。古巣・福岡下部組織のコーチを歴任し、16年からはU-15監督を務める。同年にJFA公認S級ライセンスを取得した。身長180cm。J1通算14試合0得点、J2通算175試合6得点。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

shikoku_ehime


◎バックナンバーはこちらから