1703miyahara7 幼少の頃から宮原裕司のサッカー観は“自分で決める”ではなく“自分が決めさせる”だった。根っからの司令塔タイプである。「幼稚園や小学校低学年の時の先生からは『ずっとしゃべりおって、“走れ”“もっと左に行け”と人をずっと動かしとったな』と言われました。自分ではそこまで言っていたかは覚えていないんですけどね」と笑う。宮原の頭の中を占めていたのは“どうすれば決めてくれるか”“次はどうなりそうかな”という試合に勝つためのイメージばかりだ。

 

 兄の影響で「自然とボールを蹴っていた」という宮原は、4歳からサッカーを始めた。「あの頃は夢中になっていたと今でも思います」と振り返るように、小学校ではいち早く登校して校庭で1人ボールを蹴っていた。ボール1個あればリフティング、壁当てなどができた。宮原は絵に描いたようなサッカー少年だった。

 

 ボールを持ったら敵にも味方にも渡す気はない。そういったエゴイスティックなプレーヤーにはならず、“オレが決める”との欲も出てこなかった。スピードや体力に自信があるわけではない。だから彼が選んだ道は“味方に決めさせる”ことだった。

「自分が決めさせているという感覚でした。誰かが決めてくれれば、自分を評価してくれる。決めた選手が喜んだ後に“ナイスボール!”と言ってくれましたし、周りの大人からは得点する前のプレーも褒めてくれたんです。それがうれしかったですね」

 そういった土壌もあって“司令塔・宮原”は形成されていった。

 

 同じ時代、場所で生まれたもう1人の天才

 

 プレースタイルを確立させる上で宮原が「彼の影響は大きかった」と語る幼馴染みがいる。1学年上の本山雅志(現・ギラヴァンツ北九州)だ。本山はのちに1999年のワールドユースで準優勝した際の主力メンバーで、日本代表黄金世代と呼ばれた選手の1人である。常勝軍団の鹿島アントラーズで背番号10を背負った天才肌の攻撃的MF。宮原とは小中高同じチームでプレーした。

 

「本山がどうやって決めるかしか考えていなかった。“あの人に出しておけば、ゴールを決めて勝つことができる”。そんなふうにさえ思っていました」

 宮原はボールを持つ前から本山のポジションを意識した。それだけの絶大なる信頼感を“相棒”に置いていたと言ってもいい。

 

 2人で登下校を共にし、ひたすらボールを蹴り合った。どちらも負けず嫌い。意見が衝突してケンカになることもしばしあった。

「練習はずっとやっていたし、それ以外にも公園でボールを蹴っていました。2人でサッカーに費やした時間は多かったと思います」

 

 二島スポーツ少年団を経て、二島中学でも本山とのゴールデンコンビは続いた。宮原個人としてもメキメキと力をつけ、小学生時に福岡県選抜、中学生時には九州選抜に入った。それでも宮原は“もっとうまくなりたい”との一心で練習を続けた。その想いはチームにも伝播し、本山が卒業した後の中学3年時には全国中学校体育大会で準優勝を果たした。

 

1703miyahara3 高校は東福岡に進んだ。全国区ではなかったが、福岡の強豪校ではあった。しかし、宮原は同校の存在すら知らなかったという。さらには中学3年になるまで別の高校に進学するつもりでいた。

「何の根拠もなく近所で強かった東海大五を目指していました」

 

 宮原が中学を卒業する前の時点で、両校の主な全国大会出場回数を見ても東海大五の方が名門校だったと言える。東海大五は全国高校総合体育大会(インターハイ)11回、全国高校選手権大会10回に対し、東福岡はインターハイ2回、高校選手権5回である。実績だけで選ぶなら前者である。

 

 それでも東福岡に進路変更をした理由は本山にある。彼が1年先に東福岡へ入学したことで、宮原は同校の存在を知った。加えて本山が1年生にして試合に出ていたことも大きかったのだろう。宮原の気持ちは自然と東海大五から東福岡に傾いていった。

 

 東福岡で開花し、掴んだタイトル

 

 当時、東福岡サッカー部監督を務めていた志波芳則(現・同校総監督)はこう述懐する。

「二島中学時代の本山を見た時に、同じポジションに宮原がいた。これは質の高いサッカーをできる選手だなと思いましたね」

 志波の目に留まった、その才能は開花するのに多くの時間はかからなかった。

 

 手元に置いてみて、その輝きは一層増していたという。

「状況の判断、テクニックは非凡でしたね。彼のサッカーは何て言えばいいのかな。ちょっとひとクセある。普通ならここにパスを出せばいいと考えらえるところに、彼の場合は他にも選択肢をいくつも持っている選手でしたね。パスのコースひとつにしても“えっここもあったのか”と外から見ていて驚くことは多々ありました。本人のレベル、質なんでしょうね。それは教えてできるものじゃなく、彼はそういう部分まで見えている選手だったんです」

 

 東福岡のサッカーは水に合った。宮原は当時をこう振り返った。

「中学は勝ちたいより負けられない感じでした。高校に行くと役割を与えられ、ポジションも楽しめた」

 いつしか彼の胸には対戦相手に勝ちたい、ギャフンと言わせたいとの思いが支配していった。

 

 高校2年になり、東福岡にはのちにJリーグ入りする選手たちがゴロゴロいた。「夏を過ぎてからは負ける気がしなかったですね。結果を積み重ねていくうちに1点を取られても取り返せる自信もありました」と宮原。攻守に安定した東福岡は、この年公式戦52試合無敗という記録を樹立した。その間にインターハイ、高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会(全日本ユース)、高校選手権の3冠を達成。中でも本山と宮原の存在感は絶大だった。指揮官の志波が「あの頃の東福岡で好きにプレーを任せていたのは本山と宮原だけです」と言わしめたほどだ。

 

 翌年、本山ら上級生は卒業。戦力ダウンは否めなかった。宮原は最上級生になった年、前年からの連勝記録はストップした。さらにはインターハイと全日本ユースの連覇も途絶えた。宮原は高校選手権県予選で左ヒザを負傷。全国大会へは進んだものの、痛み止めを打ちながら、騙し騙しプレーを続けた。テーピングはガチガチに巻いた。「インターハイもあっさり負けましたし、“ここで結果を残さないと、この1年は何だったんだ”という想いもありました」。宮原ら最終学年にとっては、残されたタイトルは高校選手権のみだった。

 

 東福岡は決勝まで勝ち上がり、前年と同じ帝京との決戦までこぎつけた。聖地・国立競技場での決勝はシーソーゲームとなった。前半18分に帝京が先制し、試合を折り返す。後半に入ると、東福岡が山形恭平の2得点で試合をひっくり返した。一度は同点に追いつかれたものの、東福岡は33分に宮原のアシストから山形がハットトリックを達成。終了間際に志波が「圧巻だった」と称える宮原のループシュートが決まった。4-2で勝利した東福岡は、高校選手権の連覇を成し遂げた。

 

 恩師の志波は言う。「普通の選手だったらできない部分を彼は平気でこなしている。すべての部分で高いレベルにある。だから印象に残っているのもスーパープレーしかない」。それほどまでに高校時代の宮原は輝いていたとも言えるだろう。当時としては史上初の高校3冠、そして高校選手権連覇。高校選抜やU-17代表にも選ばれた。華々しい活躍をして、鳴り物入りでプロへの道と進んだ。しかし、その世界は宮原にとって高く険しい道のりだった。

 

(第3回につづく)

>>第1回はこちら

 

1703miyaharaPF5宮原裕司(みやはら・ゆうじ)プロフィール

1980年7月19日、福岡県生まれ。4歳でサッカーを始める。二島中学では3年時に全国中学校体育大会準優勝を経験した。東福岡高に入学し、2年時には主力としてインターハイ、全日本ユース選手権、全国高校選手権の3冠達成に貢献。3年時にも高校選手権連覇に導いた。99年、名古屋グランパスエイトに加入。アビスパ福岡、サガン鳥栖、セレッソ大阪、愛媛FCとJ1・J2のクラブを渡り歩いた。10年に現役を引退。古巣・福岡下部組織のコーチを歴任し、16年からはU-15監督を務める。同年にJFA公認S級ライセンスを取得した。身長180cm。J1通算14試合0得点、J2通算175試合6得点。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

shikoku_ehime


◎バックナンバーはこちらから