いつもながらのビシッと伸びた背筋が、この御仁の気骨を感じさせる。

 

 

 約2週間後に迫ったWBC。2大会ぶりのV奪還を目指す日本代表にとってキーマンとも言える人物が投手コーチの権藤博である。

 

「権藤、権藤、雨、権藤……」

 

 このフレーズを知っている人は、かなりの野球通かオールドファンだろう。

 

 佐賀の鳥栖高から社会人野球のブリヂストンタイヤを経て1961年に中日に入団した権藤は69試合に登板し35勝19敗、防御率1.70という、今の時代では考えられない好成績で最多勝、新人王、沢村賞など、ありとあらゆるタイトルを総ナメにした。

 

 翌62年のシーズンも、権藤は腕も折れよとばかりに投げ続けた。61試合に登板し30勝17敗で2年連続最多勝に輝いた。

 

 酷使される権藤を評したのが、先のフレーズだ。実働5年で投手生命が断たれたのもむべなるかなである。

 

 肩さえ痛めなければ、楽に200勝はできただろう。悔いはないのか、と一度本人に訊いたことがある。

 

「我々の時代の監督は現役の頃に招集令状がきて戦争に行き、戦火をくぐり抜けて、また野球界に戻ってきたような人が多かった。だから“野球ができるだけで最高だ。何? 肩が痛い? ヒジが痛い? たるんどる! 命までは取られりゃせんよ!”という考え方ですよ」

 

 何とも理不尽な話だが、この経験が指導者になって生きた。イキのいいピッチャーをどんどん継ぎ込む権藤流は先発重視のこの国のプロ野球に、大きな変革をもたらした。

 

 指導者としてのハイライトは98年だろう。監督として横浜を38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いたのだ。

 

 あの時のブルペンを思い起こして欲しい。九回は“大魔神”こと佐々木主浩。その前の七、8回を支えたのは五十嵐英樹、島田直也、横山道哉、阿波野秀幸、関口伊織たちだった。

 

 日本経済新聞の名物コラム「悠々球論」で権藤は書いている。

 

<抑え投手で野球は決まる。そして八、九回に野球の怖さがあることは韓国に敗れた昨年のプレミア12の準決勝が示した通り。(中略)八、九回をいかにしのぐか。投手コーチの役目はその一点に絞られている>(2016年2月4日付)

 

 侍ジャパンを率いる小久保裕紀には、NPBでのコーチ、監督経験がない。一昨年11月のプレミア12は準決勝で韓国に大逆転負けを喫した。「僕の継投ミス」と小久保。間を置かずして御年77歳(現在は78歳)の権藤に白羽の矢がたった。

 

 実績のある大物を投手コーチに迎えた以上、継投は全て権藤の手に委ねられると思われる。

 

 打たれてから代えるのではなく、打たれる前に代える――。これが継投の要諦だと、かつて権藤は語っていた。

 

 WBCには1次ラウンドは最大65球、2次ラウンドは最大80球、準決勝と決勝は最大95球という球数制限がある。球界きっての“継投の名手”の出番である。

 

<この原稿は2017年3月5日号『サンデー毎日』に掲載された原稿です>

 


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