1703miyahara2「正直、サッカーの思い出は苦しいことしか覚えていない。ケガもしたし、戦力外にもなった。もがいていたプロ生活だった」

 宮原裕司はプロでの11年をそう振り返った。1999年に名古屋グランパスエイト入りしてからは福岡、佐賀、大阪、佐賀、愛媛、福岡を転々とした。1度の在籍は3年が最長。主に西日本のJクラブを渡り歩いた彼のプロ生活は、いわゆるジャーニーマンや渡り鳥と言われるものだった。

 

 最初のJクラブである名古屋はリーグ優勝こそなかったが、豊富な資金力を擁し、戦力も豪華だった。ユーゴスラビア代表のドラガン・ストイコビッチ、日本代表の楢﨑正剛、呂比須ワグナーをはじめ代表クラスが集まっており、宮原と同じ中盤のポジションにも山口素弘、望月重良、ウリダなどベンチに入ることすら容易ではないメンバーが揃っていた。

 

 キャンプからレベルの違いに度肝を抜かれた。アンダー世代の代表でも、他の選手たちの能力の高さに圧倒されることはあったが、そこまでではなかった。

「“プロでやっていくのは無理かな”と思いました。正直、何もできなかったし、“これからオレはどう戦っていくんだ”と常に自問自答していた。何をしたらいいのか見えなかったんです」

 1年目のシーズン、公式戦出場はゼロ。高校時代までは自らを生かすことを心得ていた宮原でさえも、戸惑うほどそびえ立った“プロの壁”は高く分厚いものだった。

 

 中でも、ストイコビッチのテクニックには圧倒された。

「ボールを取られなかった。『ドリブルは間合いだ。相手なんて関係ない。オレの間合いに入ったら絶対抜ける』と言っていました」

 とはいえ、宮原はただ指をくわえて見ていただけではない。「パスの質、回転は自分のものにしました」。盗める技術は盗む――。そこに彼の矜持を見た気がした。

 

 結局、2年目はプロ初出場を果たすもケガにも見舞われ、2試合の出場に終った。3年目は公式戦出場ゼロ。シーズン終了後に待っていたのは、チームから契約を更新しないという旨だった。

「『最初から名古屋へ行っていなければ、もっと活躍できた』と言う人もいました。でもそれが現実。むしろ振り返ってみて、あのレベルの選手たちと一緒にできたのは財産になっています」

 

 山あり谷ありの第1期福岡時代

 

 トライアウトを受けると、J2アビスパ福岡から声がかかった。地元九州のクラブ。高校時代もスカウトされたこともあった。名古屋時代のコーチだった今井雅隆が監督を務めていた縁もあった。

 

 心機一転、地元で再起を図った宮原の再び試練が訪れる。「プレーを見させてくれ。そこで値段を決めるから」と言われた入団直前のテストでケガをしてしまったのだ。半年は無給での寮生活。8月下旬にようやくベンチ入りを果たすと、第28節から試合に出るようになった。

 

 2002年はリーグ戦14試合に出場した。天皇杯では公式戦初ゴールも決めた。翌シーズンからは背番号10が与えられ、34試合2得点。J1への復帰はかなわなかったものの、福岡の4位に貢献した。宮原もようやくプロの生活も水に馴染み始めたところだった。

 

 しかし、04年のシーズンのキャンプは紅白戦から名前も呼ばれない。その後、リーグ戦が開幕し、チームが好調と言えない中でもチャンスは巡ってこなかった。

「プロなのでしょうがいないという割り切りから、“絶対認めさせる”と燃えてはいました」

 

 突然の“冷遇”にも屈せず、もがいていた。一方で腐りかけていた自分もいた。「正直、“何だよ”との思いもありました」。そんな宮原を奮わせた男がいた。当時、福岡のコーチだった大熊裕司である。

 

 熱血漢として知られる大熊は、こう宮原に告げたという。

「自分で努力したと思うな、それは人が決めることだ。目の前の試合を抜きにして、これから鍛え上げろ」

 普段のトレーニング中も発破を掛けられていた大熊の言葉は、宮原の胸にスッと染み渡った。半ば“構想外”と呼ばれる状態でも、宮原は覚悟を決める。真摯に練習に向き合ったのだ。結局、2004年のシーズンは公式戦ゼロに終わったが、彼の元にはオファーが届いた。同じ九州のJ2クラブであるサガン鳥栖だった。

 

 触発されたストライカーの存在

 

1703miyahara6 鳥栖の松本育夫監督(当時)からは熱心に誘ってもらった。「オマエとやりたいんや。チームが変わる役に立ってくれんか」。福岡で不遇をかこっていた彼にとっては、願ってもない“ラブコール”だ。福岡と比べてクラブ規模は小さいが、宮原は移籍することに迷いはなかった。

 

 与えられた背番号は10。宮原に対する期待値の高さを窺わせる。その期待が彼のプレーを蘇らせた。そして同じ年に入団したFW新居辰基の存在も大きかった。「辰の動き出し、俊敏性には自分の良さも引き出されました。もう一度感覚が研ぎ澄まされた気がします」。宮原のパスから新居のゴールが決まる。勝負所での1本が1点に繋がり、勝つ喜びを味わった。再び宮原は輝きを取り戻していった。

 

 その証拠にシーズン途中でJ1のセレッソ大阪へのレンタル移籍を果たす。4年ぶりのJ1復帰。先にC大阪へ移っていた大熊からは「鳥栖で試合に出とけよ。セレッソに絶対引っ張るからな」との言葉通りの再会となった。

「今でも思いますが、練習からちゃんとやっていたからこそ、助けてくれる人がいたんだと」

 

 宮原がプロで戦っていく自信を付けたクラブが福岡や鳥栖ならば、「勝負所の大事さを感じた」というのがC大阪だ。「選手がチームを作っていると感じました」。ケンカをするほど意見をぶつけ合う。勝つために、強くなるために皆が本気だった。

 

 エースストライカーの西澤明訓は、その象徴のような存在だった。ある試合で西澤のゴールを宮原がアシストをした。宮原の中でも“いいパスを出したな”と自信のあるプレーだった。だが、試合後に西澤から掛けられた言葉は「ナイスパス」ではなかった。

 

「おい裕司。オレがトラップしないでいいパスを出せ」

 ビデオを見て振り返ると、2mほど前にパスが出せたことに気付かされた。そこに出していれば、触るだけでゴールを奪える絶妙のアシストだった。後で西澤に確認すると、「オマエは出せるだろ」と言われた。自らが手応えを掴んだパスを否定されたが、宮原はそこで「もっと伸びしろがある。もっとうまくなれる」と感じたという。

 

 C大阪ではレギュラーではなかったが、J1の優勝争いを経験できた。翌シーズンの途中まで在籍し、鳥栖に戻り、再び10番を背負った。鳥栖ではJ1への昇格争いを経験し、チーム過去最高の4位に入った。だが鳥栖でも出場機会を減らすようになり、07年6月からJ2愛媛FCにレンタル移籍した。渡り鳥はまたしても定住できず、新たな居に移すこととなったのだ。

 

 海外移籍の機会に下した決断

 

 4クラブを渡り歩いた末に辿り着いた愛媛では、すぐにチームにフィットすることができた。シーズンは10位に終わったが、天皇杯では快進撃を見せた。4回戦で、この年のアジアチャンピオンズリーグを制した浦和レッズを撃破する。5回戦では横浜FCに勝利し、J1勢を続けざまに倒した。クラブ初のベスト8進出。宮原も中盤の底から起点となり、攻撃を牽引した。

 

 この年からは3クラブ目の背番号10が与えられた。しかし、シーズン途中に加入した前年の28から出場試合数は19に減った。シーズン終了後にフロントから伝えられたのは戦力外だった。“まだやれる”。宮原は現役続行を模索し、自身2度目のトライアウトに挑戦する。

「僕はそういう場を経験してみて良かった。改めてサッカーを好きな奴がたくさんいることも知ることができました。ゼロ円提示された人が集まっているので、冷静に考えたら恐ろしい世界ではありますが、皆が純粋にサッカー少年になって、ひとつのチームになろうとする。ライバルだけど、それぞれの良さを引き出そうともしました」

 

 トライアウトで周りを生かすという持ち味を発揮した宮原に再び声をかけたクラブがあった。アビスパ福岡だった。09年のシーズンは36試合に出場、チームは11位と低迷した。シーズン終了後、契約更新を結ばないことを告げられた。

 

 公式オファーではないものの、代理人を通じて韓国、中国、インドでプレーする選択肢もあった。特にインドでの条件は悪いものではなかった。ところが、宮原はユニフォームを脱ぐ決断をする。福岡からU-18のコーチを打診された時に“コーチかぁ”と頭を過ったことで、「もう一線ではできない。逆に失礼だ」と思ったからだ。コーチングに対する好奇心から、前年に指導者講習を受けていたことも大きく影響した。

 

 プロ生活11年で、のべ7クラブに在籍。宮原はJ1通算14試合0得点、J2通算175試合6得点で現役を終えた。“まだやれる”との思いはあった。だが、彼は後ろを振り返ることはなかった――。

 

(最終回につづく)

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1703miyaharaPF4宮原裕司(みやはら・ゆうじ)プロフィール

1980年7月19日、福岡県生まれ。4歳でサッカーを始める。二島中学では3年時に全国中学校体育大会準優勝を経験した。東福岡高に入学し、2年時には主力としてインターハイ、全日本ユース選手権、全国高校選手権の3冠達成に貢献。3年時にも高校選手権連覇に導いた。99年、名古屋グランパスエイトに加入。アビスパ福岡、サガン鳥栖、セレッソ大阪、愛媛FCとJ1・J2のクラブを渡り歩いた。10年に現役を引退。古巣・福岡下部組織のコーチを歴任し、16年からはU-15監督を務める。同年にJFA公認S級ライセンスを取得した。身長180cm。J1通算14試合0得点、J2通算175試合6得点。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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