小早川毅彦(プロ野球解説者)第26回「データも何事も別角度から見る大切さを教わった」

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 小早川毅彦さんは広島とヤクルトで通算16年にわたり活躍しました。今でもファンの記憶に残っているのがヤクルトへ移籍した1年目、1997年の開幕戦です。巨人のエース斎藤雅樹投手から放った3連発についてうかがいました。

 

 開幕戦の空気が好きだった

 今でも開幕戦の時期になると、あのとき(97年開幕戦)のことをよく人に言われますね。それだけファンのみなさんの印象に残っているということなんでしょう。プロとして非常に光栄に感じます。


 97年、私は広島からヤクルトに移籍しました。広島からは指導者や解説者の道を勧められたのですが、やはりまだ現役にこだわりがありました。35歳、まだまだやれるぞという感じでした。それで移籍したのがヤクルト。そうです、”野村再生工場”と言われていた野村克也監督が指揮されていた時代です。

 

 97年の開幕戦は東京ドームの巨人戦でした。私はスタメン5番で起用されて意気に感じましたね。最初の打席で斎藤投手の初球ストレートをフルスイング、バックスクリーンへのホームランでした。

 

 プロ野球選手というものは何年やっていても、最初にヒットが1本出るまでは不安なものです。私も毎年、最初のヒットが出る度に「これで今年もやっていけるな」とホッとしたものです。それがあのときは、いきなり初ヒットがホームランなんですから最高のスタートを切れたと言っていいでしょう。

 

 さて、ホームランを打った後の2打席目は4回表でした。ヤクルトが1点リードされて迎えた2死走者なし。カウントが3ボール1ストライクとなったところで、狙いをアウトコースの変化球に絞りました。

 

 試合前のミーティングで野村監督が「斎藤はワンスリーのカウントになると決まって外角にヒュッとカーブを投げてくる。それを誰も打とうとしないんだ」と耳打ちしてきたんです。

 

 野村監督のおっしゃってたとおり3ボール1ストライクから斉藤投手が投じた球は、まさにそのとおりカーブでした。ヒュッと曲がるのを見たとき、打席で「来た!」という感じでしたね。ドンピシャリ、予想通りのボールでした。

 

 その次の打席でもホームランを打ち開幕戦3連発と最高のスタートを切ったあの年、結局、リーグ優勝を果たして日本一にも輝きました。始まりも終わりもよかった言うことのない1年でしたね。

 

 ヤクルトに移籍してからデータを活用し始めたわけではないんです。当然、広島時代にもスコアラーの集めたデータをバッティングに生かしてました。ただ斉藤投手が「3ボール1ストライクからは外のカーブを投げる」というのは知りませんでした。野村監督からはデータの重要性はもちろんですが、データに限らず物事は見方を変えると結果も変わる、ということを教えられたと思っています。何事も一方向から見ていたら分からないことはたくさんあるんですよね。

 

 私はプロ野球選手として16年間過ごしました。野球選手にとってキャンプインの2月1日と開幕日は特別だ、といいますが、何年経ってもその気持ちは変わりません。特に開幕の日が大好きだったんですよ。

 

 季節の関係もあるでしょうが開幕戦はいつも空気が冷たく感じられていました。温度だけではなく、何かピーンと張り詰めていました。その緊張感がすごく好きで、冷たい空気の中に身を置くと武者震いしたのを覚えています。なんというか「きたぞ、きたぞ」と、毎年わくわくしたものです。現役を引退して指導者、解説者になってもこの季節になると、そんな気持ちをふと思い出すことがあります。

 

<小早川毅彦(こばやかわ・たけひこ)>
1961年11月15日、広島県出身。中学時代から野球を始めPL学園高時代は甲子園に2度(78年春、79年春)出場した。法政大学に進学後は1年春から4番打者として活躍。日米大学野球の日本代表にも選ばれている。84年、ドラフト2位で広島に入団し、ルーキーイヤーからレギュラー一塁手として定着。2割8分、16本塁打で新人王に輝いた。勝負強いバッティングで鳴らし87年、最多勝利打点のタイトルを獲得した。96年オフに戦力外通告を受けてヤクルトに移籍。翌年、4月4日、巨人との開幕戦で3打席連続ホームランを放った。99年限りで引退。通算打率.273、171本塁打。

 

(取材・文/SC編集部西崎)

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