社会人3年目までは思うような成績を残すことができずにいた井納翔一。自らも「4年目はないかもしれない」とクビを覚悟したという。そんな井納に転機が訪れたのは、ちょうど1年前のオフだった。188センチの長身から投げ下ろすストレートとスプリットが自慢の大型右腕。その井納に何があったのか。そして彼のピッチングを変えたものとは――。
―― ドラフトで名前を呼ばれた瞬間の気持ちは?
井納: もちろんありがたい気持ちはありましたが、浮かれるようなことは全くなかったです。年齢も27歳ですから、「1年目から結果を残さなければいけないな」という気持ちの方が強かったですね。

―― DeNAからどういう部分を評価されての指名なのか?
井納: 正直、「これだ」と自信を持って言えるようなものは思い当たらないのですが、それでも今年のオープン戦でDeNAのスカウト部長から「いいねぇ。有効的だね」と言っていただいたスプリットがひとつあるのかなと思います。

―― そのスプリットを習得したことが、今年の活躍につながった。
井納: もともとフォークを投げていたのですが、腕の振りが弱く、自分自身ではストレートと同じ腕の振りをしていたつもりだったのですが、打者にもわかりやすかったんです。それで昨オフ、ピッチングコーチからスプリットをすすめられました。実際に練習してみると、非常に投げやすかったですね。それとコーチから「たとえ落ちなくても、ストレートと同じ腕の振りをすれば、バッターのタイミングを狂わせて打ち取れるから」と言われたことが大きかったんです。これまでフォークを投げていた時は、「打ち取る」という考えはありませんでした。とにかく「三振を奪う」ことしか頭になかった。だから「落とさなくちゃ」という思いが強過ぎて、抜けてしまったり、ひっかけたりしていました。でも、スプリットは「落ちなくても、ゴロで打ち取ればいいんだ」と気を楽にして投げることができるので、思い切り腕を振ることができるんです。

―― スプリットを投げるようになってからピッチングはどう変わった?
井納: フォークの時はカウントを整えてから、というのがあったのですが、スプリットを投げるようになってからは、早いカウントから勝負にいけるようになりました。それこそ試合の先頭打者の初球でスプリットを投げることもあります。ですから、球数もだいぶ減りました。

 小さな誤解が生んだ大きな間違い

 昨オフ、スプリットの習得とともに、井納はフォームの修正にも取り組んだ。その結果、ようやくリリースポイントが安定するようになり、活躍につながった。また、改めて下半身の重要性を知ったという。いったい、どの部分を修正したのか。

―― 昨オフにはフォームを修正した?
井納: はい、軸足である右足のヒザの使い方を変えました。これまでは右足一本で立ってから体重移動をする際に、一度、右足のヒザをガクンと落としてから投げにいっていたんです。ところが、それでは体重がうまく左足に乗り切らず、ボールに力を伝えることができていませんでしたし、リリースポイントもバラバラでした。そこで右ヒザを落とさないフォームに修正しました。

―― なぜ、これまではヒザを落としていたのか?
井納: 他のピッチャーもそうしているものだとばかり勘違いしていたんです。でも、それは違いました。他のピッチャーはヒザを落としているわけではなく、体重移動の流れで自然と少しヒザが沈み込んでいただけだったんです。

―― フォームを修正したことで何か変化は?
井納: 下半身の弱さが露呈しましたね。スムーズに体重移動をするには、下半身の粘りが必要ですから、負担が大きいんです。春のオープン戦で、既に例年にはない疲労を感じるようになっていました。それまでよりも登板回数が増えたこともありますが、それ以前に下半身の弱さを痛感しました。これまで野球をやってきて、今年ほど下半身の重要性を感じた年はなかったですね。

 副将就任で訪れた転機

 鳴かず飛ばずの3年間を過ごした井納。誇れる成績を何一つ残すことができなかった自分にはもう4年目はないと覚悟していた。しかし、監督とコーチは井納を戦力外にはせず、そればかりか副将に任命したのだ。それが輝きを取り戻すきっかけとなった。

―― 1年前は、戦力外通告を受ける覚悟をしていた?
井納: はい。3年間、本当に何もできなかったのでクビになっても仕方ないと覚悟を決めていました。そしたら、チームに残らせてもらっただけでなく、副キャプテンにまで任命されたんです。責任感というか、「チームのために」という気持ちになりましたね。

―― それまでの3年間との一番の違いは?
井納: 気持ちだと思います。3年目までは正直、自分がプロに入ることしか考えずに野球をやっていました。特に入社した頃はそうでしたね。でも、4年目は26歳という年齢でもありましたし、プロを諦めたわけではありませんでしたが、それよりもまずはチームに何もしてこなかった3年間の1日でも埋められるようにしたいと思ったんです。プロはその結果だと。本来は、2年目くらいからそういう気持ちを持てなければいけなかったと思うのですが……。

―― 副キャプテンの役割とは?
井納: 最初は従来の副キャプテンがしてきたように、チームをまとめることが僕の仕事だと思っていました。でも、ピッチングコーチから「3年間、何も実績もなく、チームに貢献していないオマエにそんなことを求めてはいない。オマエ自身が変わってほしいから副キャプテンにしたんだ」と言われたんです。監督がどういう思いで自分を残らせて、副キャプテンにしたのか、ようやくわかりました。だから、まずは自分自身がきちんと結果を残してチームに貢献することを優先に考えてやってきました。もし、コーチに言われていなかったら誤解をしたまま、何の結果にもつながらなかったと思うんです。監督にもコーチにも本当に感謝しています。

 今も色濃く残る長野の一打

 井納にとって忘れられない一戦、そして一打がある。上武大4年の秋、明治神宮大会出場をかけた東海大学との関東代表決定戦だ。4年が経った今でも、一球一球鮮明に覚えている。また、大学1年時に対戦した長野久義(巨人)から打たれた一打が、今も脳裏に焼き付いているという。果たして、どんな一戦、そして一打だったのか。

―― これまで最も印象に残っている試合は?
井納: 大学4年の秋の関東代表決定戦です。東海大学に0−2で負けたのですが、敗因は自分のふがいない立ち上がりにありました。初回、いきなり3者連続四球で無死満塁のピンチをつくってしまったんです。そこで抑えれば良かったのですが、4番打者に犠牲フライを打たれて1失点。さらに5番打者に投げたスライダーがワンバンドになって、キャッチャーが後逸。パスボールで2点目が入ってしまいました。その後はきっちりと抑えて、8回途中まで打たれたヒットは1本だけ。結局、ノーヒットで失った初回の2失で勝敗が決まってしまいました。

―― その試合から得たことは?
井納: 自分の力はまだまだだということを痛感させられました。特にメンタルですね。プレッシャーで力み過ぎたのが立ち上がりの悪さにつながったのだと思います。正直、その後、何試合かは「また打たれたらどうしよう」とトラウマになりました。社会人になってからも、ありましたね。それほど自分にとっては大きな試合でした。

―― 現在、立ち上がりに気を付けていることは?
井納: イメージトレーニングをするようにしています。投球練習が終わって、球審の「プレイボール」という合図の前に、初球の入り方をイメージするんです。それから投げるようにしていますね。最も意識をしているのは、高さです。甘く入ってもいいから、とにかく低めに投げることをイメージするようにしています。

―― 最も印象に残っているバッターは?
井納: 大学時代に対戦した長野久義さんです。僕が1年の時、長野さんが日大の4年生だったのですが、練習試合で投げたことがあるんです。そしたら、見たこともない打球を打たれました。サードへのライナーだったのですが、三塁手が真正面で構えたグラブを弾いたんです。「とんでもない打球を打つバッターだな」とビックリしたのを覚えています。確かにスライダーが少し甘く入りはしたのですが、それにしてもすごかった。大げさではなく、打った瞬間に、三塁手が弾いているかのような、まったく打球のスピードに目が追いつきませんでした。

 井納に与えられた背番号は「15」。球団から即戦力としての大きな期待が寄せられていることは一目瞭然である。本人もそのことは百も承知だ。「1年目から結果を出して、1日でも早く背番号15と言えば、誰だかわかるくらいの選手になりたい」と意気込む。5年連続最下位と低迷が続くチームの救世主となれるか。

井納翔一(いのう・しょういち)
1986年5月1日、東京都出身。小学1年から野球を始め、中学時代は軟式のクラブに所属。木更津総合高を経て上武大に進学し、4年時には春秋ともに最優秀防御率をマーク。同年秋はベストナインにも輝いた。卒業後、NTT東日本に入社し、4年目の今年は副将に就任。入社以来初めて都市対抗のマウンドに上がり、1勝1敗、防御率2.63をマークした。188センチ、88キロ。右投右打。

(聞き手・斎藤寿子)

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