プロで2年半ぶりに本職にチャレンジしようとしているのが、杉山翔大だ。彼は高校時代に内野手から捕手に転向。甲子園には出場しなかったものの、強肩強打の捕手として当時からプロのスカウトに注目されていた。だが、早大時代には大きな壁にぶつかり、2年秋からは内野手へのコンバートを命じられ、結局最後まで捕手に戻ることはできなかった。一時は腐りかけたという杉山。その彼を救ったものとは。そして2年半、離れてもなお「好き」と言う捕手というポジションの魅力とは――。
―― ドラフト会議で名前を呼ばれた瞬間の気持ちは?
杉山: 当日、みんなは下の部屋に集まってテレビを観ていたのですが、僕は一人で2階の自分の部屋にいました。まだ早慶戦を控えていましたので、もし仮に指名されなかった時に、僕がいるとチームの雰囲気が下がってしまうと思ったんです。部屋のパソコンで確認していたのですが、予想していた4位が指名され終わりそうになったので、「あぁ、もう自分はないかな」と思いました。そしたら、下でみんなが大騒ぎし始めたので、指名されたことがわかったんです。でも、まさか中日から指名してもらえるとは思っていなかったので、喜びとともに驚きの方が大きかったです。

―― 中日という球団へのイメージは?
杉山: 毎年優勝争いをしていて、ピッチャーを中心とした守りのチームというイメージが強いですね。ただ、バッティングも長打を打てるバッターがたくさんいますし、非常にバランスのとれた、理にかなった野球をするチームだなと思っています。

―― どんなところを評価されたのか?
杉山: 「打てるキャッチャー」ということで、打撃を一番買われたのではないかと思っています。中日のスカウトの方は、高校時代から自分を見ていただいていたそうです。大学では2年秋から内野手をやっていましたが、それでも僕自身がキャッチャーへの強い思いを抱いていたことも指名していただいた理由の一つになったと聞いています。

 亡くなった祖父への思いが転機に

 杉山が大学に入学した2009年、当時の早稲田大には、翌年にいずれもドラフト1位でプロから指名を受けた斎藤佑樹(北海道日本ハム)、大石達也(埼玉西武)、福井優也(広島)ら好投手が揃い、彼らの活躍は日本スポーツ界において注目コンテンツのひとつとなっていた。その中で1年春から試合に出場した杉山に、それまで経験したことのない壁が立ちはだかった。杉山はそれをどう乗り越えようとしたのか。

―― 大学1年の頃は、キャッチャーとして苦労も多かった?
杉山: 一番苦労したことと言えば、大学生のボールに慣れることでした。はじめはスピードや変化球のキレについていけず、大学のレベルに自分が追いつくところからスタートしました。それと、年齢の離れたピッチャーの球を受けるというのは、予想以上に難しかったです。なかなか話しかけることができませんでした。

―― 特に福井投手は怖くて話しかけられなかったと?
杉山: はい、最初は怖かったですね(笑)。配球面で怒られることはありませんでしたが、ブルペンでのピッチングで、こちらがキャッチングでいい音を鳴らさないと、怒られました。ピッチャーにしてみたら、いい音が鳴らないと、「今日は走っていないのかな」と不安になりますから、特に試合前はいい音を鳴らしてあげるのが非常に大事なんです。ところが、「いい音を鳴らさなければ」と思えば思うほど、力んでしまって「ポスッ」という音になってしまうんです。軽くパッと捕れば、簡単に鳴るのに、プレッシャーでどうしても力を入れて捕ってしまうんです。その点は、非常に苦労しましたね。

―― 斎藤投手に対しては?
杉山: 斎藤さんの場合は、ワンバウンド気味のスライダーを捕るのが難しかったですね。斎藤さんはポーカーフェイスなので、表情はほとんど変わらないのですが、やはり顔を見れば、怒っているかどうかはすぐにわかります。そこで「次は止めなくちゃ」と思うと、また力みが生じてしまう。そうすると、上体が上がってグラブが浮いた状態になるんです。それでトンネルしたり、うまく止められなかったり……といった悪循環に陥ってしまいます。

―― 2年の秋に内野手にコンバート。どう気持ちを切り替えたのか?
杉山: 正直、3年の春まではずっと引きずっていましたし、腐りかけていました。とにかくただやっているだけで、向上心を持って取り組んではいませんでした。転機となったのが、3年の6月に祖父が亡くなったことでした。祖父は本当に野球が大好きで、小さい頃からずっと練習や試合を観に来てくれていたんです。それまでは特に考えたことがなかったのですが、亡くなって初めて、祖父の存在の大きさを感じました。一番悔しいのは、その祖父にプロのユニフォーム姿を見せることができなかったこと。だから、キャッチャーへの気持ちは少し置いておいて、まずはとにかくプロに行けるくらいの選手になろうと思いました。そこからですね、気持ちを切り替えて、野球に打ち込むことができたのは。

 ノーステップで打撃開眼

 3年の春まで思うような成績を残すことができずにいた杉山だが、3年の秋以降は高打率をマークし、チームを牽引した。特に今秋は、春にはあと一歩で届かなかった三冠王に輝く活躍を見せた。その要因となったのが、3年秋に取り入れた“ノーステップ打法”だった。

―― ノーステップ打法に変えた理由は?
杉山: 3年の春が終わり、夏に入る頃に徳武定祐コーチから「ノーステップでやってみろ」と言われたんです。実は、それまでもいろいろとアドバイスをいただいてはいたのですが、他の方々からもご指導いただいたことで、正直、どれを信じてやったらいいのかわからなかったんです。それで結局は自分の打ちたいように打っていたら、どんどん崩れていってしまって……。それで、1年の頃からずっと見てくださっていた徳武さんを信じてみようと思いました。

―― 徳武コーチがノーステップ打法を勧めたのはなぜ?
杉山: それまでの不振の一番の理由が、目のブレにあったんです。自分でもそれは感じていました。目のブレが生じることによって、ストライクとボールの選球眼が甘くなって、ボール球にも体が反応していたんです。それで目のブレをなくすために、ノーステップ打法を取り入れました。

―― 実際にやってみてどうだったか?
杉山: 当初はT−岡田さん(オリックス)のようなまったく足を上げない完全なノーステップだったんです。しかし、それではなかなか体重移動がうまくできずにいました。しかも、完全に下半身主導の打ち方なので、足に大きな負担がかかり、疲労が出てきていたんです。そんな時、オープン戦でホームに突っ込んだ際、相手のキャッチャーとクロスプレーになって肉離れをしてしまいました。それでリハビリ期間中に、足に負担がかからないフォームを模索したところ、タイミングはノーステップのままで、打ちに行く時には半分か1足分、踏み込んで打つようにしてみました。そしたら、いい感じをつかむことができた。それが、秋から打率がグンと上がった要因になったと思います。まさに「ケガの功名」でしたね。

―― 4年秋には三冠王に輝く活躍だった。
杉山: 練習量の賜物だと思っています。今年の夏は、何十年ぶりかに軽井沢での合宿が復活しました。今までの夏と比べても、一番きつかったですね。朝から夕方まで、1週間休みなく、バットを振り続けたんです。そんな辛い練習でメンタル面も強くなり、秋には勝負どころで1本が出たのかなと思います。

 内野手転向で得た送球技術のレベルアップ

 2年半、捕手というポジションから離れた杉山だが、捕手への思いは少しも薄らいではいない。そこまでの強い思いを抱く捕手の魅力とは。また、高校時代から目指し続けてきたプロへの思いとは。

―― キャッチャーとしての難しさややりがいは?
杉山: たとえキャッチャーが「ここに投げて欲しい」と思ってサインを出しても、ピッチャーがその通りに投げてくれるとは限りません。ですから、キャッチャーはピッチャーを信頼はしても、信用はしてはいけないんです。そこが難しいところですね。逆にやりがいを感じるのは、チームが勝った時です。勝ち星はピッチャーにしかつきませんが、自分のリードが正しかったんだと。キャッチャーはスポットライトを浴びるポジションではありません。でも、唯一全員を見渡すことのできるポジションですから、試合を動かしているという自負があります。そういうところに魅力を感じているのだと思います。

―― 内野手にコンバートしたことで、これからキャッチャーとして活かせることは?
杉山: サードをやったおかげで、スローイングが非常に良くなりました。実は、キャッチャーをしている時は、肩を痛めることも少なくなかったんです。というのも、ホームからセカンドに投げるにしても、塁間以上の距離を投げなければいけないのですが、投げる際に体が開いてしまって、肩が横から出ていたんです。それが、サードをやっていくうちに上から振り降ろすようになりました。捕球して、球を持ったら、そのまま耳元から真っ直ぐに振り落とすという感じです。そうすると、軽く投げてもスッと伸びる球を投げることができるようになりました。おかげでほとんど肩を痛めるようなことはありませんでした。それが一番の収穫だったと思います。

―― 以前は「プロは化け物がいっぱい」と言っていたが、今の気持ちは?
杉山: 同じですね。大学時代よりも数段レベルの高いピッチャーばかりですから、キャッチャ−としてもバッターとしても、本当に未知数の世界。怖いなという思いはあります。でも、高校時代のような不安だけというわけではありません。今はいろいろと考えられるようになってもいるので、楽しみな部分もあります。

―― 理想とする選手像は?
杉山: キャッチャーにとって一番大事なのは、信頼です。「こいつは不安だな」と思って投げるのと、「こいつなら大丈夫」と思って投げるのとでは、同じ球でも違うと思うんです。ですから、谷繁元信さんのように、肩が強くて、なおかつリードもいい、だからこそピッチャーやチームに絶大なる信頼を得られるようなキャッチャーになりたいと思います。

 2年半ぶりに扇の要であるポジションに返り咲く杉山。一度離れたからこそ、得たものは大きいと考えている。それを活かすも殺すも杉山自身。一日でも早く投手陣の信頼を得ることが生き馬の目を抜く厳しいプロの世界で生き残る術となるだろう。マスク姿で一軍の舞台に立つ日が待ち遠しい。

杉山翔大(すぎやま・しょうた)
1991年2月10日生まれ。千葉県出身。小学3年で野球を始め、中学までは内野手として活躍。東総工入学後に強肩を買われて捕手に転向し、1年夏から「3番・捕手」として出場。高校通算40本塁打。早稲田大では1年春から捕手として試合に出場するも、2年秋には内野手に転向。3年秋から打線の柱として活躍し、副将として臨んだ4年春は打率3割9分5厘をマーク。5季ぶりのリーグ優勝、さらには大学選手権では5年ぶりの日本一に大きく貢献した。

(聞き手・斎藤寿子)

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