28日、松井秀喜がニューヨークで会見を行ない、現役を引退することを発表した。「命がけでプレーし、メジャーで力を発揮するという気持ちでやってきた結果が出なくなった。命がけのプレーも終わりを迎えた」と語った松井。日米合わせて20年間に及ぶ現役生活に終止符を打つことを決意した。日本で復帰しない理由については「ファンは10年前のイメージのままでいる。その姿に戻れると強く思えなかった」と述べた。
 日米を沸かせたゴジラが、静かにその歩みを止めた。
 石川県出身の松井は、星稜高時代から超高校級スラッガーとして騒がれ、甲子園に4度出場。3年夏の甲子園では対戦相手の明徳義塾高(高知)が5打席連続敬遠の作戦をとり、物議を醸すほどだった。

 92年のドラフト会議では4球団が競合するなか、巨人の監督に復帰した長嶋茂雄がクジを引き当て入団する。1年目から高卒ルーキーとしてはリーグ記録となる11本塁打を記録すると着実に成績を伸ばし、日本を代表するホームランバッターとして活躍した。3度のMVP、3度のホームラン王、3度の打点王などに輝き、巨人では4度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。02年にFA権を行使してメジャーリーグ挑戦を表明し、ニューヨーク・ヤンキースに移籍した。

 MLBを代表する名門でも主力打者としての地位を確立していた松井にとって、大きな転機となったのはヤンキース4年目となった06年だ。5月にレフトの守備でスライディングキャッチを試みた際に左手首を骨折。日本時代から続いていた連続試合出場が1768で途絶える。約3カ月後に復帰したものの、以降は故障が目立つようになり、巨人時代から抱えていたヒザ痛や、太ももの肉離れなどで欠場や故障者リスト入りするケースが増えた。

 そんな中、松井が輝きを放ったのは09年。ポストシーズンで勝負強さを発揮し、フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは第2戦に決勝アーチを放つ。ヤンキースが3勝2敗と王手をかけた第6戦でも先制2ランを含む6打点と大爆発し、日本人初のシリーズMVPを獲得した。

 しかし、以降は苦しいシーズンが続き、10年はロサンゼルス・エンゼルス、11年はオークランド・アスレチックスに移籍するも満足な成績が残せなかった。今季は所属チームが決まらないまま開幕を迎え、4月末にようやくタンパベイ・レイズとマイナー契約。5月にメジャー昇格を果たし、最初の3試合で2本塁打を放って好スタートを切ったが、結局、この時、元中日のチェン・ウェイン(ボルチモア・オリオールズ)から打った一発が現役最後のホームランとなった。7月には球団から戦力外通告を受け、去就が注目されていた。

 日米通算では2504試合で2643安打、507本塁打、1649打点、打率.293。金本知憲、小久保裕紀、城島健司ら大物の引退が相次いだ今年の日本球界で、1年の最後に、また偉大なスラッガーがグラウンドを去ることになる。