現在、セ・リーグの首位を走る阪神タイガース。好調の要因は糸井嘉男、福留孝介ら左の強打者がきっちりと結果を出しているからだ。阪神の左のスラッガーと言えば、掛布雅之を忘れてはならない。1985年、不動の4番として阪神に21年ぶりとなるリーグ優勝をもたらし、リーグ分立後初の日本一に導いた。26年前の原稿で、ミスタータイガースと呼ばれた男の生き様を振り返ろう。ちなみに、44年前の5月21日は、掛布がプロ初ヒットを放った記念すべき日でもある。

 

<この原稿は1991年7月5日号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>

 

 昭和49年春。兵庫県西宮市にあるタイガース若手選手の合宿所、虎風壮。入寮したばかりの掛布雅之の部屋に、同期入団の中谷賢平が息急き切って駆け込んできた。

 

「今(合宿所の)洗濯物置場に行ってみたら、オマエのユニフォームに31番がついとった。すごいやないか、カケ。オマエ、球団から期待されとる証拠や」

 

「ウソだろ!? オレにそんないい番号くれるわけないじゃないか」

 

 掛布は中谷の言葉をすぐには真に受けなかった。半信半疑のまま、中谷と連れ立って洗濯物置場に行ってみる。すると、ハンガーにかけられた背番号31が、おだやかな春風の中で小さく揺れていた。

 

「テスト生同然で、しかも高校出の野手といったら、50番台か60番台の背番号が普通ですよ。にもかかわらず、僕ひとり31番という一軍格の番号でしょう。ただただ信じられない気持ちだったですね。しばらくして、“掛布の31は長嶋の3と王の1を足した番号”と言われ始めましたが、もらった時には全くそんな意識はなかった。むしろ前の年までカークランドがつけていた番号だったということの方がうれしかった。カークランドといったら、外人選手でありながら田淵さんと並ぶタイガースの顔だったわけでしょう。その背番号を僕がつけている。もう、うれしくって、何度も鏡ごしに背番号をのぞいたものですよ」

 

 テスト生同然のドラフト6位入団。1年目の年俸は、両リーグ最低の84万円。月給に換算すると、わずか7万円。その中から寮費と道具代が天引きされるため、手にする額は5万円を切っていた。

 

「当時は銀行振込ではなく手渡しだったため、25日のゲームが終わるとマネージャーの部屋に給料をもらいに行くんです。すると、選手全員の給料が並べて置かれてある。その中で一番薄っぺらいのが僕の給料袋、小銭が入ってなかったら風で飛んで行ってしまうんじゃないかと思えるほど頼りない(笑)。でも、少ないとは思わなかった。むしろ好きな野球でおカネもらってもいいのか、という感覚でしたね。で、一番立派なのが田淵さんの給料袋。これは横にしても立っちゃうんです。それをジロッと横目で見ながら、“オレもあんな給料袋を手にする日が来ればいいなァ”と漠然と憧れた。もっとも、その頃は目標というより夢の世界でしたけどね」

 

 そして掛布はこう続けた。

 

「当時、一番憧れたことはトレーナー室でマッサージしてもらうことでした。というのも当時はまだ、一軍のレギュラークラスじゃないとトレーナー室に入ってはいけないというような暗黙の了解があったんです。僕なんか、“すいません、絆創膏ください”と言ってノックをしただけで、“コラッ、何しにきたんや”ですからね。まして“マッサージしてくれ”なんて言ったら怒鳴りつけられてしまいますよ。そんな空気があの頃のトレーナー室には漂っていた。だから、“早くレギュラーになりたい”という気持ちよりも“早くマッサージを受けてみたい”という気持ちの方が強かった。また、それが一番の励みでしたね」

 

 非凡なバッティングセンスが買われ、開幕から一軍ベンチ入りを許された掛布は、5月21日の巨人戦で、プロ入り初安打を放つ。掛布は無我夢中で長嶋茂雄の待ち受けるサード目がけて滑り込んだ。が、間一髪ボールの方が早く、タッチアウト。にもかかわらず掛布は「うれしくて、うれしくてたまらなかった」と、そのプレーを振り返る。

 

「僕は小学校、中学校、高校とずっと王さん、長嶋さんに憧れて野球をやってきた。その憧れの人たちと同じグラウンドで野球をやり、しかもタッチまでされてしまったわけです。アウトとかセーフは二の次。ベンチに帰ってからもずっと夢心地。“オマエ、アウトになってニヤニヤ笑っているんじゃない”と叱られた後もずっとニヤニヤしてしまいました。なにしろ、あの長嶋さんにタッチされたわけですからね。喜ぶなという方が無理ですよ(笑)。」

 

 プロ入り3年目のシーズンに打率3割2分5厘、27本塁打、83打点。4年目のシーズンに打率3割3分1厘、23本塁打、69打点の好成績を残して田淵幸一に次ぐタイガースのスターに成長した掛布は、63年のオールスター第3戦でパ・リーグの佐伯和司、佐藤義則、山口高志の3投手から、オールスター史上初の3打席連続ホームランを放つ。この3連発は23歳の掛布を球界を代表するスラッガーに導くと同時に、関西圏での人気を全国区へと押し広げるものでもあった。

 

「僕の後を打っていたのが王さんでしょう。その王さんが、ホームランを打った僕をホームベースで待ち受けてくれているわけです。本当はすごいことをやっているにもかかわらず、すごすぎでピーンとこなかったですね」

 

<掛布と江川の対決は、男のロマンを感じさせる。斬るか斬られるかの勝負だった>

 

 憧れのプロ野球に身を投じ、夢中になってボールを追っているうちに、掛布は気がつくと眩いばかりの地位を得ていた。年俸は6年目で入団時の約24倍の2000万円に達した。我が身をつねってみたくなるほどのバラ色の日々。そこへ鳴り物入りで登場したのが江川卓である。「年は同じでも、プロでは僕の方が5年先輩。とりたてて意識することはありません」と平静を装ってみたものの、掛布の胸中は激しく波立っていた。

 

 掛布の回想――

 

「確か高校3年の春だったと思います。江川の作新学院と僕のいる習志野が練習試合をしたんです。その試合で僕は先発投手から運悪くデッドボールを受け、江川が出る前に引っ込んでしまった。で、医務室から出てくるとブルペンにロープが張られ、その中で江川が投球練習を始めたんです。その瞬間、スタンドがシーンとなった。キャッチャーミットを突き上げる音が、今までに聞いたこともないようなすごい音なんですね。ボールが浮き上がることはないはずなのに、浮き上がってくるように見える。それはちょっと形容し難い雰囲気でしたね」

 

 54年7月7日、後楽園球場。掛布-江川の初対決の場面は初回2死。ワンスリーからの5球目のカーブを掛布が強振すると、打球はライトスタンド上段に矢のような勢いで突き刺さった。掛布は15年間のプロ生活で349本のホームランを記録しているが、その中で一番印象深いのが、江川との対戦で放ったこのホームランだという。さっそうと4つのベースを回る間、掛布は一度も江川に目を向けず、また江川もポーカーフェイスを崩さなかった。それは二人の意地と矜持を如実に示す象徴的なシーンだったと言えるだろう。

 

「今考えると、僕は掛布君に対して非常に恥ずかしいようなことをしたような気がするんです」

 

 神妙な面持ちで江川が述懐する。

 

「僕が掛布君に対して投げた5球のうち4球までがカーブなんです。僕は自分でこのバッターは、と思う選手に対しては、常にストレートで勝負してきた。それなのに、なぜかこの時はカーブで勝負してしまった。それが今考えると非常に恥ずかしいんです」

 

 かつて筆者は、元セ・リーグ審判員の三浦真一郎氏からこんな話を聞いたことがある。江川は掛布に対し、必ず初球はカーブから入った。それを分かっていながら、掛布はカーブに手を出さずストレートを待った。江川もそれを分かっていたため、初球はカーブを投げても、必ず最後はストレートで勝負した。男のロマンを感じさせる斬るか斬られるかの勝負だった、というのである。

 

 江川の回想――

「僕も彼も勝負球はストレートと決めていましたからね。だから1球目のワンストライクはサービスしてもらったと思っています。しかし、掛布君からしたら“ストライク1つあげるよ”ということでしょう。それは今にして思えば非常に腹が立つ(笑)。遊ばれていたのかな、という気になりますね。ただし、お互いに絶好調の時に力一杯の勝負をしたいという気持ちはありましたね。だから彼が調子の悪い時に三振をとってもうれしくなかった。ちょっと漫画っぽい表現ですけど、僕の投げたストレートを彼がフルスイングしたら、バットが真っ二つに割れてボールがミットに吸い込まれる。僕は常にそういうふうな気持ちで勝負していました」

 

 対する掛布は、好敵手への思いを次のように語る。

「一度、敬遠されたことがあるんですが、その時のボールが無茶苦茶速いんです。そのボールには“本当は勝負したいんだけどベンチの指示で勝負できないんだ”というメッセージが込められていた。ボールの速さだけなら大洋の遠藤君や中日の小松君も江川君に負けなかったと思うんです。しかし、江川君のボールには“江川”とはっきり名前が書いてあるんですよね。それが遠藤君や小松君には感じられなかった。晩年、よく“手抜き”とか“百球肩”とか言われましたけど、あれだけプライドを持って真剣に投げていたピッチャーはいなかったですよ」

 

 ピッチャーとバッターは、18.44メートルの空間をはさんで無言の会話をかわす。掛布と江川が8年間にわたって交わし続けた会話は、きわめつきの硬派の色に染められていたのである。

 

(後編へ続く)


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